「関ヶ原の戦い」で翻弄された島津義弘!玉砕戦術 ”捨て奸”に至るまでの壮絶なドラマ【後編】

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「関ヶ原の戦い」で翻弄された島津義弘!玉砕戦術 ”捨て奸”に至るまでの壮絶なドラマ【後編】

前編では、島津義弘が関ケ原の戦いに参戦した経緯について説明しました。後編では、義弘の退却戦である「捨て奸(すてがまり)」戦法について説明します。

前編の記事はこちら↓

「関ヶ原の戦い」で翻弄された島津義弘!玉砕戦術 ”捨て奸”に至るまでの壮絶なドラマ【前編】

関ケ原で孤立した島津軍

1600年9月15日、関ケ原の戦いが始まります。

関ヶ原合戦図屏風(Wikipediaより)

西軍・石田三成は関ケ原の北に位置する笹尾山へ陣を取り、義弘もそこから南の位置に布陣しました。

当初、西軍が圧倒的に有利だったといわれています。しかし小早川秀秋の裏切りや、毛利軍が機能しなかったことから形成は一気に東軍に傾き、逆転してしまうのです。

三成は伊吹山へ敗走し、小西行長、宇喜多秀家の軍も次々と敗走。西軍は散り散りになり、島津軍は戦場のさなかに取り残されてしまいました。

当初は1,500人ほどの人数だった島津軍は、この時すでに300人ほどになっていたようです。

ここで義弘は選択を迫られます。東軍と最後まで戦って討ち死にするか、後方に退いて近江へ退却するか、または前方へ抜けて大垣へ退却するかのいずれかでした。

義弘は前方に抜けて大垣へ退却することを選びます。

そしてこの大垣への退却の際に「捨て奸(すてがまり)」の戦法が取られました。

「島津軍」のみならず「島津家」をも救った捨て奸

捨て奸とは、少数の兵で構成される殿軍が留まり、銃撃で馬上を撃ったあとは刀や槍で応戦して敵の軍を足止めするというものです。

島津義弘(Wikipediaより)

この時、立ち膝などではなく、胡坐の姿勢で待ち構えることから胡坐陣や座禅陣とも呼ばれます。そしてこれは最後の一人が討ち死して全滅するまで戦う、まさに命がけの戦法でした。

その殿軍が全滅するとまた新たに殿軍が同じように足止めを行い、これを繰り返すことで大将を戦線から離脱させるのです。

明らかに不利な状況で戦うことになる殿軍ですが、彼らには自決も敗走も許されません。捨て奸の戦法が取られたのが後にも先にもこの時だけであった理由が分かるようです。

そして義弘は突破に成功。鬼気迫る島津軍の突破に、家康もそれ以上の追撃を諦めたようです。義弘は大和三輪山平等寺に逃げ込んだのち、薩摩に帰国しました。義弘の軍で無事に薩摩に戻ることがきたのは80数人だったといいます。

「島津の退き口」とも呼ばれるこの退却戦は、今もなお戦いの壮絶さと島津義弘と家臣の強い信頼関係を語り継いでいます。

関ケ原の戦いのあと、次々と改易や減封などの厳罰にあう西軍側の諸大名。その一方で島津家は家康から本領を安堵されました。西軍として参戦し、東軍にも大きな損害を与えたのにも関わらずこれは異例の措置でした。

明治時代まで島津氏の居城だった鹿児島城(写真は復元された御楼門・Wikipediaより)

一説には、関ケ原の戦いで勇猛果敢な戦を見せた義弘に、家康が脅威を覚えたからともいわれています。

「捨て奸」は戦場の島津軍のみならず、その後の島津家をも救ったのです。

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