【三大法難その②】法然上人、齢75にして島流し!浄土宗三大法難のひとつ「建永の法難」とは?
「元久の法難」からくすぶる火種
浄土宗史上で、三つの大きな「法難」として「元久の法難」「建永の法難」「嘉禄の法難というのがあります。前回は、「元久の法難」について説明しました。
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元久の法難は、浄土宗の専従念仏をやめさせるよう朝廷に訴えられて、危うく浄土宗がピンチに陥った事件でした。これは朝廷の理解もあって難を逃れましたが、この時の火種はその後もくすぶり、今度は「建永の法難」が発生します。
この「建永の法難」では何が起きたのでしょうか。
これは「承元の法難」とも呼ばれており、興福寺が専修念仏を批判したのがきっかけとなり、ついに建永2年(1207年)に浄土宗の開祖である法然が流刑となった、一連の事件のことを指します。
元久2年(1205年)、興福寺は朝廷に、二度に渡って浄土宗の専修念仏の停止(ちょうじ)と法然およびその門弟に対する懲罰を求めました。「元久の法難」です。
しかし朝廷は、専修念仏の問題は法然の門弟の浅智によるものとし、法然にも罰は与えませんでした。
結果、その後も不満を溜めていく興福寺。
そのような状況の中、ある事件が起きてしまいます。
法然の門弟のなかに、住蓮と安楽という二人の若者がいました。二人は見た目も声も美しく、ひとたび二人の別時念仏・六時礼讃(一日6回念仏を唱える行儀)が始まると多くの民衆が集まったといいます。
この、集まった人々の中に、松虫姫と鈴虫姫という二人の女性がいました。
住蓮と安楽の念仏にいたく感激を受けたこの二人の女性は、実は後鳥羽上皇が寵愛していた女房でした。
そして上皇が熊野参詣で留守をしている間に、彼女たちは勝手に出家してしまったのです。
法然、流罪となるもともと後鳥羽上皇は興福寺から専修念仏の停止を求められていた立場でした。寵愛していた女房が二人も出家してしまいひどく怒り、浄土宗を弾圧する方向にかじを切り始めます。
住蓮と安楽は斬首され、二人の師である法然は土佐に島流しになることに。当時法然は75歳でした。
九条兼実はなんとか法然の流刑を止めようと動きますが、すでに政権を退いたあとで、流刑を止める力はありません。
ひどく悲しんだ兼実は「ふりすててゆくは別れのはしなれどふみわたすべきことをしぞおもふ」という惜別の歌を法然に送っています。
兼実から離れてゆく法然を口惜しく思う様と、それでもなお自分は上皇に赦免状を送って赦免の橋渡しになりたいという思いが込められています。
それに対して法然は「露の身はここかしこにと消えぬともこころはおなじ花のうてなぞ」と返します。
露のように儚い身はいつどこで消えてしまうか分からないけれど、極楽浄土の蓮の花で再会することを同じ心で願いましょう、という一生の別れになることを予感させる歌でした。
兼実はこの後も、法然の流刑地を土佐から自領である讃岐に変更するなど尽力しましたが、流刑からひと月も立たないうちに59歳で亡くなってしまいました。
ちなみにこの時、法然の門弟であった親鸞も越後に島流しにあっています。
参考資料
日本の歴史 解説音声つき 新纂浄土宗大辞典 真宗高田派本山 専修寺日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

