新紙幣の顔となる「津田梅子」留学からの帰国後、すっかり日本語を忘れてしまっていた?
2024年から新紙幣の顔となる津田梅子は、東京都小平市にある津田塾大学の前身・「女子英学塾」の創立者です。
日本初の女子留学生となり、女子教育に心血を注いだ津田梅子の功績 〜新五千円紙幣肖像に梅子は6歳のときに日本初の女性留学生の一人として岩倉具視使節団とともに渡米しました。この留学は、維新の立役者でのちに総理大臣になる黒田清隆が募ったもので、北海道開拓使として働いていた黒田が、北海道の開拓には人材育成が必要で、そのためには優秀な母親が必要であるというふうに考えたからでした。
幼くして留学した梅子は、それから11年間もアメリカで勉学に励み、ラテン語、フランス語などで優秀な成績を収めるなど、語学で才能を開花させました。
17歳になって日本に帰国すると、伊藤博文の家で通訳兼家庭教師として働いています。
24歳になると留学を志し、再び渡米。ブリンマー大学で生物学を専攻しました。このとき梅子が指導教官であるトーマス・ハント・モーガン博士と共同で執筆した論文はその後、“The Orientation of the Frog’s Egg”(「蛙の卵の定位」)として、イギリスの学術雑誌 ”Quarterly Journal of Microscopic Science, vol. 35, 1894.”にまとめられました。
このことから、梅子は、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性ともいわれています。
帰国した梅子は、その後、35歳のときに「女子英学塾」を創立。このときの資金や運営費は留学時の友人や支持者たちからの寄付などによるそうです。
その額は数百万円にも及んだとか。当時、外国人からだけの寄付でこれだけ集まったのは前代未聞のことで、津田梅子自身がいかに周りから高い評価を受けて期待されていたのかがよくわかります。
このように、語学に堪能で人望も厚く、教育者としての指名に燃えていた梅子でしたが、留学したのがあまりにも幼いときだったからか、なんと帰国後はすっかり日本語を忘れてしまっていたそうです。
日本に戻ったものの、日本語がわからず、日常生活にも不便が生じてしまい、英語を勉強していた妹に通訳してもらいながら、日本での生活を送っていたのだとか。
梅子の日本語の苦手っぷりを伝えるエピソードが残されています。あるとき梅子が外出中に言葉が通じずに困っているところに、たまたま通りかかった外国人がいました。
そこで英語で話しかけ、日本語の通訳をしてもらったこともあるようです。語学に堪能だった梅子でしたが、どうも日本語だけは最後まで苦手だったようです。
参考
石附 実 『近代日本の海外留学史』(1992 中央公論社) 古川 安 『津田梅子: 科学への道、大学の夢』 (2022 東京大学出版会)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
