平家が滅んだのが「壇ノ浦」なのはなぜ?他の場所ではダメだった?そこに至るまでの経緯をたどる

Japaaan

平家が滅んだのが「壇ノ浦」なのはなぜ?他の場所ではダメだった?そこに至るまでの経緯をたどる

「平家にあらずんば人に非ず」

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも出てきた、有名な「壇ノ浦の戦い」はなぜ壇ノ浦なのでしょう? この戦いは、どのような経緯で発生したのでしょう? その経過をたどります。

平清盛は1156(保元元)年の保元の乱に勝利し、1159(平治元)年には平治の乱に勝利し源義朝を敗死させると朝廷への影響力を強め、1167(仁安2)年には朝廷の最高職である太政大臣にまで昇りつめます。

平清盛(Wikipediaより)

1171(承安元)年になると、清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させて朝廷内の権力を掌握。朝廷の要職を平家一門で独占し、日宋貿易の権益も手中に収め莫大な富を手にします。その繁栄ぶりは、「平家にあらずんば人に非ず」と言われるほどであったといいます。

1178(治承2)年、平徳子は言仁親王(のちの安徳天皇)を授かります。すると、清盛は幼い言仁親王を即位させることを画策、翌1179(治承3)年、後白河法皇を幽閉し院政を停止させると、1180(治承4)年になると高倉天皇が譲位し、ついに言仁親王が即位して安徳天皇となります。

安徳天皇を擁し絶大な権力をふるう平家一門に対し、朝廷内部では不満を抱く者が増えていきました。また、本来は武士である平家が貴族のようにふるまい始めたため、武士達の心も次第に平家から離れていきました。

そんな中、打倒平家に向けて動き出したのが、後白河法皇の第3皇子である以仁王でした。以仁王は才能に優れ人望もあったため、平氏政権から危険視され30歳近くになっても親王宣下を受けられず不遇をかこっていました。そして、安徳天皇の即位により皇位継承の望みも絶たれてしまい、平家一門に対して深く恨みを持つようになります。

以仁王(Wikipediaより)

叛逆の狼煙と平家の敗走

そんな以仁王の元に接近したのが摂津源氏の源頼政でした。以仁王は頼政を通じて諸国の源氏や有力寺院に対して平氏追討の令旨を下しますが、準備が整う前に計画が平家側に露見してしまいます。挙兵は失敗に終わり、源頼政は自害に追い込まれ、以仁王も命を落としてしまいます。

しかし、以仁王の令旨を受け関東では源頼朝が、北陸では木曽義仲が挙兵します。1180(治承4)年、頼朝は石橋山の戦いで平家軍の大庭景親と対戦しますが、兵力に劣る頼朝軍は敗北を喫します。

木曽義仲(Wikipediaより)

敗走中に平家方の梶原景時に命を救われ何とか安房国へ逃れた頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤を味方に付けると、これをきっかけに南関東の有力豪族を次々と従え関東を制圧し、相模国鎌倉を拠点として武家政権の整備に着手します。

この事態を重く見た清盛は孫の維盛を総大将とする遠征軍を東海道に派遣しますが、富士川の戦いで敗北、形勢が徐々に逆転していきます。

そのような中で1181(治承5)年に清盛が病死し、棟梁の座は三男の宗盛が引き継ぎますが、1183(寿永2)年の倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲の軍勢に大敗、京へ進撃する義仲軍を防ぐことができず安徳天皇と三種の神器を伴って西国へ落ち延びます。

その後、頼朝の命を受けた弟の範頼、義経が京へ進軍し義仲を滅亡させると、平家軍は一の谷で源氏軍を迎え撃ちますが義経の奇襲に遭い敗退、讃岐国屋島へと逃れます。

一ノ谷の戦いの後、頼朝は範頼に北条義時、三浦義澄、比企能員、和田義盛ら3万騎の軍勢を与え、山陽道を通って九州へ渡り平家軍の背後を封鎖するように命じます。

源頼朝(Wikipediaより)

範頼軍は強力な水軍を持つ平家軍の抵抗に遭い関門海峡を渡ることができず、折からの飢饉により兵糧の確保にも苦心しますが、1185(元暦2/寿永4)年1月、平家に反抗する豊後国の緒方惟栄ら地方豪族を味方に付け九州へ渡ることに成功すると、翌月には葦屋浦の戦いで平家方の原田種直を撃破し、筑前国の太宰府を押さえます。

平家の滅亡

一方、義経は1185年2月、屋島の戦いにて平家の拠点を奇襲により攻略、義経軍に追われた平家軍は範頼軍により九州への退路を遮断され、やむなく壇ノ浦に面した長門国彦島へ撤退します。

平家軍は彦島に追い詰められましたが、それでもいまだに強力な水軍500艘余りを有していました。義経はそれに対抗するために摂津国の渡辺水軍や伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍など約840艘を味方に付け進軍します。

そして、3月24日正午頃、東から壇ノ浦へ攻め入る源氏水軍に対し、平知盛率いる平氏水軍は彦島を出て迎え撃ち、壇ノ浦の戦いが始まりました。

『安徳天皇縁起絵図』第七巻「壇の浦合戦」、第八巻「安徳天皇御入水」(Wikipediaより)

追い詰められた平家にとっては、壇ノ浦の戦いは一族の存亡をかけた最後の戦いでした。しかし、頼朝の目的は関東の武士の自立であり、平家との戦いに勝利し降伏させることを考えていました。朝廷の中でも、安徳天皇と三種の神器の引き渡しによる平家との和平交渉を進める動きがあったのです。

しかし、義経が降伏の隙も与えぬまま一気に平家を攻め滅ぼしてしまったため、平家側が持ち出した三種の神器と安徳天皇を取り戻すことができず、頼朝は目的を果たすことができませんでした。

源義経(Wikipediaより)

戦いの後、頼朝・義経兄弟の不和は決定的となりますが、梶原景時の讒言もさることながら、頼朝の意に反して平家を滅ぼしてしまった義経の独断横行が不和の原因の一つになったのではないかとも考えられるのです。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「平家が滅んだのが「壇ノ浦」なのはなぜ?他の場所ではダメだった?そこに至るまでの経緯をたどる」のページです。デイリーニュースオンラインは、平家壇ノ浦の戦い鎌倉時代平安時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る