絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その3】

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絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その3】

狩野永徳・長谷川等伯と並び称される江戸初期の絵師・海北友松の生涯を紹介するシリーズの3回目。

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絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その2】

海北友松(かいほうゆうしょう)は、近江浅井家で重臣を勤めた武家海北家の出自だったが主家とともに滅亡。友松は、画家として活動する傍ら生涯にわたり、その再興を目指し、様々な人々と交流を行った。

【その3】では、親友・斎藤内蔵助利三の遺骸を奪還した友松と、その後についてお話ししよう。

海北友松と妻の妙貞。(写真:Wikipedia)

晒された斎藤利三の遺骸を奪回する

1582(天正10)年6月2日、友松の親友・斎藤利三の身に一大転機が訪れた。主君明智光秀が本能寺に織田信長を急襲し、滅ぼした本能寺の変が勃発したのだ。

信長を亡き者にした光秀は京都を抑えるなど早急に権力構築を試みた。しかし、豊臣秀吉の中国大返しや盟友であった細川幽斎(ほそかわゆうさい)・筒井順慶(つついじゅんけい)らの大名を味方にできず、同年6月12日の山崎の戦いで秀吉に敗れる。

本能寺にある織田信長墓所。(写真:高野晃彰)

光秀は居城の近江坂本に逃れる途中で落ち武者狩りの手に落ち、利三も捕らえられ斬首された。二人の遺骸は、首と身体を繋がれ、粟田口の刑場で磔にされ晒されたのだ。

信長を討ってから僅かの間に、光秀も利三も実にあっけなくこの世を去った。友松がこれをどう感じたかは定かではない。しかし、友松を突き動かしたのは「名こそ、惜しけれ」という、辱めをよしとしない武門の血であった。

山崎の戦の後、近江堅田に逃れた斎藤利三。(写真:Wikipedia)

真如堂東陽坊の仏間に座する友松は、住持の東陽坊長盛に毅然と言い放つ。

長盛殿、今夜、某は粟田口に参ります。

長盛は友松が携えてきた長槍を見てその真意を悟った。

ならば、拙僧も共に参ろう。弔いに坊主は欠かせまい。

その深夜、闇に紛れて友松と長盛は粟田口の刑場に侵入した。

漆黒の闇を割くように、長盛が声高々に経を唱える。その声に驚いた番兵たちが槍を構えた。

拙僧は、旅の僧にござる。弔いのために参上した。

それと同時に友松が飛び出し、番兵たちに槍を突き付ける。

すわっ、明智の残党ぞ!出会え、出会え!

うろたえる番兵たちを蹴散らすように友松の長槍が唸りを上げた。その隙に長盛が斎藤利三の遺骸を背負い、真如堂へと走った。

友松は長槍を振るいつつ、明智光秀の遺骸の奪還を試みる。しかし、敵が友松一人と判ると、続々と応援の兵たちが刑場に駆けつけてきた。

最早これまで、明智様、お許しを!

友松は光秀の遺骸に一礼すると、忽然と闇の中に姿を没した。

真如堂に戻った友松と長盛は利三の遺骸を手厚く葬った。今も真如堂には、東陽坊長盛・海北友松・斎藤利三の墓が並んでいる。

真如堂境内の海北友松・斎藤利三・東陽坊長盛の墓。(写真:高野晃彰)

斎藤利三の子・ふく(春日局)を厚く庇護する

『海北家由緒記』によると明智光秀が滅びた時、友松は斎藤利三の妻子を匿い、厚く庇護したという。

その子が、後に江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母となり、老中を凌ぐといわれた権勢を確立した春日局(かすがのつぼね)こと、斎藤ふくだった。

3代将軍徳川家光の乳母として権勢を誇った春日局。(写真:Wikipedia)

春日局は友松没後に、友松の妻妙貞と子の友雪(ゆうせつ)を江戸に招いて歓待するとともに、将軍家光のもとに召し出し、江戸に屋敷を与えた。

友雪は絵師としての活動の傍ら、小谷忠左衛門として京都で絵屋を経営し生計を立てていたが、この時から友雪を名乗り、本格的な画壇デビューを果たす。その後は、幕府はもとより、後水尾上皇などの宮廷御用を勤め、法橋に任ぜられている。

絵師として武士として己を貫いた海北友松

晩年の海北友松は、大名家や宮中と親交を深めつつ、悠々自適な生活を送り、絵を描き続けた。

その中で、多くの文化人や教養人と交わり、そこで得たものを作品に投影していく。そして、『浜松図屏風』『網干図屏風』『山水図屏風』などの名作を描き、従来の水墨画の常識を覆す、立体感のある山水画の画風を確立した。

晩年の海北友松。(写真:Wikipedia)

1615(慶長20)年6月2日、友松は83歳でその生涯を閉じた。武家としての海北家の再興を夢見たが、ついにその夢は果たせなかった。

友松ほどの人脈があれば、様々な大名家からの誘いもあっただろう。もし、仕官していれば、その夢は叶ったはずだ。

しかし、友松はそれを潔しとはせず、決して権力者に仕えないという矜持を持ち続け、己が信ずる道を貫いた。

建仁寺の雲竜図の意図

最後に、友松が建仁寺方丈に描いた雲龍図に触れてみたい。

あれは、蛟龍(こうりゅう)だ。

と友松が言った龍の絵である。

蛟龍とは、まだ龍になれず水辺に住む「蛟(みづち)」のことで、中国の想像上の動物。蛟は雲雨に会えば、天の昇って龍になるとされ、時運を得ない英雄・豪傑の例えとされる。

とすると、あの龍は友松自身であったのか、あるいは時運に恵まれず、足早にこの世を去っていった斎藤利三・明智光秀・安国寺恵瓊ら友松ゆかりの人々であったのか。

水墨で描かれた雲龍図。(写真:Wikipedia)

現在、雲龍図は京都国立博物館に寄託されており、特別展などで展示されるので、機会があればぜひ鑑賞していただきたい。

長い文章にもかかわらず、3回にわたりお読みいただきありがとうございました。

<参考文献>
葉室麟著 『墨龍賦』(PHP研究所/PHP文芸文庫)

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