情報社会で長年トップに君臨し続けた新聞の歴史に迫る!大正から現代まで【後編】

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情報社会で長年トップに君臨し続けた新聞の歴史に迫る!大正から現代まで【後編】

前編では、日本における新聞の起源から明治時代までの歴史を紹介しました。

情報社会で長年トップに君臨し続けた新聞の歴史に迫る!起源から明治まで【前編】

後編となるこの記事では、戦争や政治の影響によって一時的に弾圧された新聞がどのようにして出版の自由を取り戻し、現代まで続いてきたのかを紹介します。

戦争で発展した新聞

1894年に日清戦争が始まると、戦争関連の内容が新聞の一面を占めました。

世間の注目度が高い戦争関連の内容を扱ったことで新聞の需要は高まり、社会に対する新聞の影響力が強まったのです。

日露戦争が勃発した1904年には、他国と情報を共有できる国際通信綱が整備され、「大阪朝日新聞」がロイター通信と契約。これを皮切りに、ほかの新聞社も世界各国の情報に力を入れて報道するようになりました。

新聞の活躍

大正時代になると新聞を中心に、主権を天皇とした民主主義「民本主義」の発展や自由主義的な運動の風潮を称した「大正デモクラシー」の影響力が高まります。

また、1913年に藩閥政治の矛盾点を指摘することで桂太郎内閣を倒し,翌年起きたシーメンス事件では山本権兵衛内閣の癒着問題を暴露。内閣総辞職となったことで新聞の価値が民衆に認められました。

白虹事件

1918年に米の価格高騰し、飢えに苦しんだ民衆らによって米騒動が引き起こされます。政府は騒動が大きくなるのを恐れて米騒動に関する報道の一切禁じました。

日清戦争の頃より影響力を保持した各新聞社は、日本国憲法第21条の「言論の自由」を侵害する行為だとして抗議します。しかし抗議は受け入れられることなく、政府は批判記事を公開した朝日新聞に発行を禁じ、社長や幹部らを退社へ追い込みました。

この事件は「白虹(はっこう)事件」と呼ばれ、ほかの新聞社も政府への批判記事を控えるようになっていったのです。

関東大震災と新聞社の生死を分けた差

1923年9月1日、関東大震災が起こります。

東京に密集していた新聞社は致命的な打撃を被り、再建に必要な莫大な資金を要求されました。多くの新聞社が復興に手間取っているなか、 資本力のあった「東京朝日新聞」「東京日日新聞」は共謀して価格や発行部数などを取り決め、市場での競争を誘導する行為(現在では違法行為)「販売力ルテル」を行うことで、他の新聞社を出し抜いたのです。

カルテル地獄から生き残ったのは、現在の日本経済新聞「中外商業新報」 や「読売新聞」などの数少ない新聞社のみでした。

軍国主義による支配

昭和時代になると、世界恐慌や社会不安による国内の政治混乱、中国大陸での紛争などが重なって発達した軍国主義の思想と右翼勢力が結託して新聞を弾圧。武力行使も厭わない軍国主義に逆らえなくなった新聞は、軍の暴走を容認してしまうどころか、戦争を積極的に支持してしまいます。

当時、影響の大きかった新聞が軍国主義支持をおこなったことは、国民を第二次世界大戦へと誘導する結果となりました。

終戦後の新聞

1945年8月15日、日本の敗北によって戦争は終結。

戦時中には軍国主義の影響により好戦的な内容に徹していた新聞ですが、GHQが旧日本帝国政府や軍による言論の自主的な取り締まりをすべて廃止したことで、言論の自由が回復。占領政策の批判や軍国主義的な発言に対しては 、GHQ による厳しい検閲が行われました。

1951年9月に行われたサンフランシスコ講和会議によって、翌年4月占領体制に終止符が打たれます。

GHQの監視から解放された新聞は本格的な自由競争の時代へ突入。現代に続く新聞へと変化しました。

現代のメディア

現代では新聞やラジオ、テレビや雑誌といったマスメディアのほか、第5のマスメディアになりつつあるインターネットも存在します。

媒体が増え、各個人が情報を手軽に取得できるようになった反面、偏った思想や報道を鵜呑みにしてしまうケースも少なくありません。

情報社会と呼ばれるいま、真実の報道を見分ける力を養うことが大切と言えるでしょう。

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