白布をかぶって長刀で武装…「僧兵」とは何者だったのか?その由来と役割を探る
なぜ僧侶が武装したのか
僧兵とは武装した僧侶たちのことで、彼らは武器を持って戦に参加したと言われています。
武蔵坊弁慶のイメージもあり、僧兵というと頭を白布で覆い、大きな長刀を手にしている、ちょっとカッコいい姿が頭に浮かびます。
僧兵・武蔵坊弁慶と源義経(月岡芳年筆・Wikipediaより)
それにしても、「お寺のお坊さん」が武装していたなんて、今の時代から見るとなんだか不思議なことですね。
経典を学び、日々修行に励んでいるはずの僧侶たちがなぜ武装する必要があったのでしょう?
そもそも、僧兵が歴史に登場するきっかけになったと考えられているのが、平安時代の荘園の存在です。
荘園のうち、地方の豪族が国の徴税を逃れるために寺院に寄進したものを「寺領荘園」と呼びますが、これは寺院にとっては、権力を得るのに必要な財産でした。
よって、僧侶たちはこれを自らの手で守る必要がありました。
そこで諸国の寺院は僧侶や寺院の関係者に武器を与えて訓練を行い、武士のように戦えるように体制を整えたのです。これが僧兵の始まりです。
勢力を増す寺院もともと、寺院の統率力は非常に優れていました。
特に奈良の興福寺や東大寺・延暦寺・園城寺の僧兵の勢力はとても大きく、興福寺の僧兵は「奈良法師」延暦寺は「山法師」園城寺は「寺法師」という名称までつけられていたそうです。
当時は寺院同士の争いも多く、統率力が優れていたのはこうした背景もありました。寺院は大勢の僧兵を抱えて武装集団と化し、力が増せば増すほどまた争いごとも増えていくという悪循環の中にあったのです。
イメージ的には、冷戦時代のアメリカとロシア、あるいは暴力団の抗争をイメージするといいかも知れません。
特に、興福寺と東大寺の間では多くの争いが起きています。
例えば、一反の土地を巡って争った結果死者が出る騒ぎになったり、田楽の舞に難癖をつけたことがきっかけで興福寺の敷地内にあった塔が焼けてしまったりと、ほんの小さなきっかけから何度も大騒動が起きているのです。
『春日権現験記』にみられる興福寺の僧兵(Wikipediaより)
それでも、寺院同士でケンカしているだけならよかったのですが、彼らは武力と神仏の力を振りかざして、朝廷に数々の要求を行うようになりました。強訴です。
強訴によって権力を手中に収める寺院の強訴は実にたちが悪く、僧兵たちは神木や神輿をかついで朝廷に押しかけたと言われています。
特にこれを頻繁に行ったのが興福寺と延暦寺でした。いわゆる南都北嶺で、当時の朝廷は南北から強訴の挟み撃ちに遭っていたのです。
また、古代の日本人にとって、神仏の祟りや呪いはこの上なく恐ろしいものでした。武力と呪いをちらつかせて要求されればそれを飲むしかなかったことでしょう。
一方、朝廷の側も北面の武士という組織を結成して対抗しようとしていますが、案の定、僧兵たちもさらに強力に武装して強訴を行っています。
このように、僧兵の登場によって寺院が持つ力は強大になり、時として権力に介入したりするようになったのです。
鎌倉時代の武家社会になっても寺院の力は衰えず、その後も大きな勢力として存在し続けました。
こうした歴史的背景を知っておくと、織田信長がなぜあそこまで執拗に寺院を攻撃したのかが分かりますね。
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