戦国時代屈指の忍者集団「真田忍軍」!その活躍ぶりと武田信玄との関係とは?【後編】

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戦国時代屈指の忍者集団「真田忍軍」!その活躍ぶりと武田信玄との関係とは?【後編】

武田信玄と真田忍軍のマッチング

真田家の棟梁・真田幸隆が、真田忍軍によって砥石城を攻略したことを前編までで説明しました。

戦国時代屈指の忍者集団「真田忍軍」!その活躍ぶりと武田信玄との関係とは?【前編】

この時の幸隆の活躍が、武田家における真田氏の立場を大きなものにしていきます。

真田幸隆(Wikipediaより)

砥石城攻略の際、武田信玄は幸隆を支援するために信濃国東部の小県郡・佐久郡へと侵攻し、抵抗勢力を一掃していました。そして同地域を完全に支配下に置きました。

幸隆は砥石城攻略の功績が認められ、城を預けられます。またこの時、海野一族の旧領である小県郡も回復しました。

さて当時、何よりも「情報収集」を重視していた信玄は、忍者集団を組織して透破(すっぱ)と呼ばれる忍者の養成に力を入れていました。

そして、育成した忍者たちを全国各地に送り込み諜報の任務にあたらせ、そこから上がってくる各国のさまざまな情報を総合することで敵の弱点を見極め、戦を有利に進めていったのです。

そんな信玄が、幸隆や真田忍軍に注目したのは当然のことと言えます。

甲府駅前の武田信玄像

このような背景もあり、真田幸隆は信濃先方衆という外様の立場でありながら、譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えるようになりました。

そして彼は、信玄の懐刀として「武田家の陰の軍師」「信玄の名参謀」と呼ばれるようになりました。

信玄の死

信玄が育成していた透破(忍者)の数は千人を超えていたと言われています。

そんな透破の頭領として活躍していたのが富田郷左衛門出浦盛清で、盛清はのちに真田忍軍と大きな関わりを持つようになります。

彼の忍者としての才能は群を抜いており、こんな逸話も残っています。ある時、部下の忍者に敵城での情報収集を命じた盛清は、部下よりも先に自分自身が潜入して自ら情報を持ち帰り、部下の情報の正確性を確認したというのです。

やがて、1573年に信玄が死去すると、それを追うようにして翌1574年に幸隆も死去。真田忍軍は真田昌幸へと引き継がれます。

真田昌幸によって築城された上田城

出浦盛清は引き続き武田家に仕えていましたが、1582年に武田家が滅亡すると、新たに信濃の領主となり海津城に入った森長可に仕えるようになります。

所領を守るために…

本能寺の変により長可が本拠地の美濃へ撤退すると、盛清は真田家に仕えるようになりました。

そして横谷幸重とともに真田忍軍の頭領となり、忍者の育成に貢献するなど、真田家の重要な戦力として活躍しました。

その後、真田家は本能寺の変の後の甲斐・信濃をめぐる徳川・北条・上杉の三つ巴の戦いに巻き込まれていきます。

しかし、忍軍から得られた情報を生かして、各大名の間を巧みに渡り歩き、所領を守り抜きました。

その後の小田原征伐でも、参加した真田家の武将の中には出浦盛清と横谷幸重の頭領2人の名前が記録されています。また、忍軍で実力者として活躍した唐沢玄蕃割田重勝もそこに名を連ねています。

桜満開の小田原城

のちに大坂の陣で華々しく散った真田幸村と、それを支える真田十勇士というヒーロー像が創り上げられたのも、このときの真田忍軍の活躍があったからこそなのでしょう。

参考資料
刀剣ワールド

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