謀叛人の娘がなんだ!愛妻との離縁を断固拒否した北条朝直(トキューサ嫡男)のエピソード【鎌倉殿の13人 後伝】
武士の結婚と言えば、その多くが政略結婚。当人同士の感情は置き去り、少なくとも後回しにされがちでした。
実際多くの夫婦はそうだったようですが、古来「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」とはよく言ったもの。生活を共にする中で愛情が生まれることは少なくありません。
そしてひとたび愛情が生まれてしまうと、いざ政略の都合で別れろと言われてもなかなか割り切れないものです。
今回は鎌倉時代、必死に愛妻を守ろうとした御家人・北条朝直(ほうじょう ともなお)のエピソードを紹介したいと思います。
妻と別れさせるなら出家する!両親と大喧嘩した朝直北条朝直は建永元年(1206年)、北条時房(ときふさ)の子として誕生しました。母親は足立遠元(あだち とおもと)の娘です。
通称は相模四郎(さがみのしろう。父が相模守だったため、その四男)、やがて伊賀光宗(いが みつむね)の娘を正室に迎えた朝直はたいそう妻を可愛がったと言います。
しかし貞応3年(1224年)6月に伯父の北条義時(よしとき)が亡くなり、その後継者争い(伊賀氏の変)によって伊賀氏は失脚。光宗は流罪にされてしまいました。
「舅殿のことは残念だが、娘であるそなたには関係ない。これからも、我が許におれ」
「……はい」
程なくして光宗は赦され、鎌倉に帰ってきたものの、やはり謀叛人と縁続きというイメージはつきまといます。
「そこで武州(泰時)殿の娘御と再婚の話が……」
「嫌です!」
嘉禄2年(1226年)2月22日、従兄である北条泰時(やすとき)の娘との縁談が持ち上がったものの、朝直は断固として拒否しました。
……武州之女嫁相州嫡男、四郎、依有愛妻、光宗女、頗固辞、父母懇切勧之云々、
『明月記』嘉禄2年(1226年)2月22日条
【意訳】武州の娘を相州(時房)の嫡男である四郎に嫁がせようとしたが、四郎は愛妻(陸奥旨の娘)と別れたくないのですこぶるこれを辞退。両親が懇切に説得したという。
「四郎よ、そなたの気持ちもよう解る。しかし執権殿とつながりを深めて鎌倉殿をお支えする使命を忘れてはならぬぞ」
「そうですよ四郎。何も奥方を離縁せよとは申しませぬ。ただご実家の格を鑑みれば、然るべき座にお迎えするのが筋ではないかえ?」
「断じて否です!彼女は我が生涯の伴侶としてお迎えした以上、側室に格下げせよなどとは承服致しかねます!」
こうして別れろ嫌だの応酬が繰り広げられ、月をまたいでなおも激論が交わされました。
……武州婚姻事、四郎 相州嫡男、猶固辞、事已嗷々云々、相州子息惣非其器歟、成出家之支度云々、依悲本妻之離別也……
『明月記』嘉禄2年(1226年)3月9日条
文中「事已嗷々(ことすでにごうごう)」とあり、事態はてんやわんやの大騒ぎに発展していたことが察せられます。
「嫌だと言ったら嫌です!それでもなお無理強いされるのであれば、それがしは北条を担う器ではないので、出家させていただきます!」
「「それはやめて!」」
余談ながら、朝直の兄である北条時村(ときむら)・北条資時(すけとき)は承久2年(1220年)に揃って出家しており(明確な理由は不明)、この兄弟は何か仏道にご縁があるのでしょうか。
とまぁそんな具合に激しく抵抗した朝直でしたが、寛喜3年(1231年)には泰時の娘が男児を生んでいるため、それまでに離縁したことがわかります。
離縁された妻がその後どんな末路をたどったのか、寡聞にして知りません。
北条朝直の息子たちさて、ここで北条朝直の息子たちについて見ていきましょう。
……申刻。相摸四郎朝直室〔武州御女〕男子平産。
※『吾妻鏡』寛喜3年(1231年)4月19日条
【意訳】16:00ごろ、朝直の正室(泰時の娘)が男児を出産。母子ともに健康。
この子が恐らく長男の北条朝房(ともふさ)。『系図纂要』によると全5名の男子が誕生していますが、朝直は側室として安達義景(あだち よしかげ。安達盛長の孫)の娘も娶っているため、どっち(あるいは身分が低い他の女性)が母親かは不明です。
長男・北条朝房
通称は武蔵太郎。備中守・式部大夫を歴任し、従五位下に叙せられます。しかし父から勘当(義絶)され、永仁3年(1295年)に鎮西(九州)で亡くなりました。鎌倉を追放されてしまったのでしょうか。
次男・北条時仲(ときなか)生没年不詳、武蔵左近大夫将監とのみあります。もう少し情報が欲しいですね。
三男・北条時忠(ときただ。大仏宣時)通称は武蔵五郎。「五郎」は祖父・時房の通称であり、家督を継いだことが判ります。後に宣時と改名、また鎌倉大仏の近くに住んだため大仏宣時(おさらぎ のぶとき)と呼ばれました。
四男・北条頼直(よりなお)通称は武蔵八郎、一気に跳びましたね。間は女子なのかも知れません(男男女女男女女男男)。こちらもこれ以外に情報がなく、今後の解明が俟たれます。
五男・北条朝貞(ともさだ)通称は武蔵九郎。コメントは「下野守(に任じられたこと)」のみ。5人兄弟を見ると四男の頼直だけ何の官職もありません。母親は側室(安達義景の娘)か、あるいは更に身分が低かった可能性も考えられるでしょう。
終わりに閑話休題。こうして愛妻と別れてしまった朝直。しかし泰時の娘としても自分の意思で嫁いだ訳ではないのだし、いつまでも悲しい顔で迎えられてはたまりません。
事情はどうあれ結婚する以上、朝直には彼女にも幸せな家庭を提供する(作るべく協力する)義務があるでしょう。もちろん、安達義景の娘に対してもです。
人間、死ぬときは誰でも独り。だから生きている間くらいは寄り添っていたい。そんなことを誰が言ったか、ご縁によって別れも出会いもめぐる中、いま一緒にいる(いてくれる)相手を少しでも大切にしたいと思います。
※参考文献:
飯田忠彦『系図纂要 五十 平氏 五』国立公文書館デジタルアーカイブ 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 10 御成敗式目』吉川弘文館、2011年5月 藤原定家『明月記 第二』国書刊行会、1911年10月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan