鎌倉殿の候補から2度も流罪に…雅成親王の波瀾万丈な生涯【鎌倉殿の13人】 (2/3ページ)

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しかし後鳥羽上皇はこれを拒絶、朝廷と鎌倉の対立は深刻になっていきます。

そして承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉の執権・北条義時(演:小栗旬)を討つべく兵を挙げました。後世に伝わる承久の乱です。

果たして後鳥羽上皇は敗れて隠岐国(現:島根県隠岐諸島)へ流され、雅成親王も但馬国城崎郡高屋(現:兵庫県豊岡市)へ流されました。このことから但馬宮(たじまのみや)とも呼ばれます。

遠く隠岐の島で果てられた後鳥羽上皇。前田晁『少年国史物語 第3巻』より

嘉禄2年(1226年)に出家。そのままひっそりと余生を過ごすのかも思いきや、父・後鳥羽上皇の崩御(延応元・1239年)後に赦免され、京都に戻って母と暮らしました。

これでようやく安らかな余生を……過ごせるかと思いきや、今度は寛元4年(1246年)。京都で権勢を奮っていた九条道家(くじょう みちいえ。九条兼実の孫で、第4代鎌倉殿・藤原頼経の父)によって六条宮(ろくじょうのみや)に祭り上げられます。

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