ペリーより百年以上も早く来航!元文の黒船「乗組員の正体と目的」 (2/3ページ)
また、吉宗は享保二年(1717)四月、長崎からオランダ商館長を江戸城へ呼び寄せ、動物好きだった彼はオランダやバタビア(オランダの植民地=現・インドネシアの首都ジャカルタ)の馬の話の他、同じくオランダとバタビアの緯度や気候などについて尋ねている。
一方、五代将軍綱吉の時代に幕府はキリスト教関連の漢訳洋書(漢文で表記された西洋の書物)を警戒し、事実上、輸入禁止としていたが、吉宗はこの行き過ぎを改め、享保五年(1720)にこの措置を緩和した。
ちなみにわが国でこのあと洋学が盛んになるが、その契機がこの吉宗の開明的な政策にあったといえよう。
そして、吉宗が亡くなる一二年前の元文四年、黒船が来航したのだ。
まず黒船は五月一九日に気仙沼沖(宮城県)に出現。次いで前述した通り、二三日に網地島の住民が目撃している。
現れた黒船は二隻。さらに二五日、荒浜(宮城県亘理町)沖では、もう一隻増えて三隻。同じ日に安房の天津沖(千葉県鴨川市)でも一隻。
二八日には荒浜沖にいた三隻が田代島沖(宮城県石巻市)などに現れ、伊豆の下田沖(静岡県)でも一隻が目撃されている。あとで分かったことだが、目撃される隻数が異なるのは、四隻で艦隊を組んでいた黒船が気象条件などの理由で別行動となったためだった。
先の『元文世説雑録』によると、網地島の漁師は漁船で近づき、黒船の乗組員が手招きしたので乗船したらしい。鯛を渡したら、たいそう喜ばれ、その代わりに豆板(通貨)を五枚渡されたという。網地島の漁師と黒船の乗組員との間で、いわば商い(貿易)が成立したことになる。
また、田代島の僧侶や漁師らが黒船に乗船した際の話として、「(船には)商売用と思われる毛皮をたくさん積み込み、皮製の地球のようなもの(つまり、皮製の地球儀)があった」という。
幕末に編纂された幕府の外交史料集『通航一覧』は、この「元文の黒船来航」についても記し、異国人が住民(網地島の漁師とは別)らに与えた通貨が黒船の正体を知る決定打となったことが分かる。
住民らが幕府に通貨を届け、幕府はさらにオランダ商館長に送って確かめさせたのである。