武将・茶人として、徳川家康から重用された細川忠興(三斎)。京都大徳寺「高桐院」に色濃く残る忠興の面影を訪ねる。【どうする家康】

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武将・茶人として、徳川家康から重用された細川忠興(三斎)。京都大徳寺「高桐院」に色濃く残る忠興の面影を訪ねる。【どうする家康】

細川忠興(三斎)は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた智勇兼備の武将。一方で、茶の湯に精通する数寄者としても知られていました。

関ケ原の戦い・大坂の陣では、徳川側として活躍。肥後熊本藩54万石の礎を築きました。

京都大徳寺の塔頭「高桐院」は、その忠興(三斎)の遺骨が埋葬されている寺院です。

今回は、現在拝観休止中ですが、秋のひと時、眩いばかりの紅葉に彩られる「高桐院」に、色濃く残る忠興(三斎)ゆかりの史跡をご紹介します。

細川忠興(三斎)[写真:Wikipedia]

細川忠興が父幽斎の菩提を弔うために創建

京都市中にありながら静寂に包まれた大徳寺。その境内に一画に「高桐院」は佇みます。

「高桐院」は、関ケ原の合戦の翌年、慶長6(1601)年に戦国大名の細川忠興(三斎)が、父幽斎(藤孝)の菩提を弔うために創建した大徳寺塔頭寺院です。

細川藤孝(幽斎)[写真:Wikipedia]

当寺には、正保2(1645)年に、83歳の生涯を閉じた忠興(三斎)の遺骨も埋葬され、熊本藩主細川家の菩提所となりました。

文武に優れた武将が残した茶禅一致の庭

「高桐院」の庭や茶室には、勇猛な武将であり、千利休七哲の一人として極め、茶の湯や武具のデザインなど卓越した美意識をもつ忠興(三斎)のセンスを随所に垣間見ることができます。

客殿の南庭は、中央に石灯籠が一基のみ配された長方形の枯山水庭園で、俗に「楓の庭」と呼ばれています。楓をはじめとした多くの草木により深山幽谷の趣が感じられ、秋になると紅葉が苔の緑を覆い尽くす情景は、美しいの一言。客殿の奥から眺めるとまるで一幅の絵のようです。

客殿の南庭「楓の庭」[写真:T.Takano]

茶室鳳来の付書院から見える西側が「書院露地庭」で、奥まった北側は茶室松向軒の「草庵露地庭」の様相を呈します。茶室松向軒は、秀吉の北野大茶会の際に造った茶室を移築したといわれる二畳台目の茶室で、「三斎好み」と伝えられます。

露地庭の奥には、楓越しに「茶室松向軒」が見える[写真:T.Takano]

三斎とガラシャの墓標は、利休秘蔵の天下一の灯籠

露地庭奥、築地塀に囲まれた場所に細川家墓所があり、その一画に利休秘蔵の天下一の灯籠を墓標とした忠興(三斎)とその夫人ガラシャの墓が立ちます。

天下一の灯籠を墓標とした忠興とガラシャの墓[写真:T.Takano]

ガラシャは明智光秀の娘で本名を玉といい、16歳で三斎に嫁ぎました。夫とともにキリシタンとなりガラシャと名乗りましたが、関ケ原の戦いの折り西軍の捕虜となるのを拒み、屋敷に火をかけて38歳の生涯を閉じました。

この灯籠は、秀吉に望まれたため利休がわざと裏面の笠の一部を破損させ疵物にしたという逸話が残ります。そこまでして秀吉に渡すことを拒んだために、利休切腹の一要因ともいわれています。

千利休[写真:Wikipedia]

露地庭には忠興(三斎)愛用の手水鉢が埋め込まれています。少し窪んだ場所に据えられた「降りつくばい」と呼ばれる袈裟型の手水鉢で、加藤清正から忠興(三斎)に贈られたもの。参勤交代の際にも持ち歩いたといわれるほど、お気に入りの手水鉢でした。

忠興遺愛の手水鉢「降りつくばい」[写真:T.Takano]

また同じく露地庭にある井戸は、忠興(三斎)の月命日に墓前へ捧げる水を汲み上げていたもので、「三斎井戸」と呼ばれています。苔蒸した古井戸が、茶人の寺の雰囲気にぴったりと調和します。

三斎井戸[写真:T.Takano]

「高桐院」は、改修工事・コロナ禍などの理由で、現在拝観休止中。しかしながら、拝観が再開された時には、すぐにでも訪れたいほどの魅力に溢れた寺院として、心にとどめていただければ幸いです。

※高桐院 DETA
京都市北区紫野大徳寺町73-1
交通:市バス「大徳寺前」から徒歩8分

※参考文献
『歴史と文化を愉しむ 京都庭園ガイド』(京都歴史文化研究会著・メイツユニバーサルコンテンツ刊/高野晃彰・執筆編集)

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