尼将軍・北条政子の最期。嘉禄元年7月11日を『吾妻鏡』はこう書いた【鎌倉殿の13人 後伝】

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尼将軍・北条政子の最期。嘉禄元年7月11日を『吾妻鏡』はこう書いた【鎌倉殿の13人 後伝】

伊豆の片田舎で嫁き遅れていたじゃじゃ馬娘が、気づけば鎌倉殿の尼御台として、天下の御家人たちに君臨していた。

そんな空前絶後の活躍を果たした北条政子(ほうじょう まさこ)。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小池栄子さんの眼力あふれる演技が輝いていましたね。

さて。伝説の名演説によって後鳥羽上皇(演:尾上松也)との決戦を主導し、承久の乱を勝利に導いた彼女は、弟である執権・北条義時(演:小栗旬)の死後もしばらく生きます。

北条政子。源氏三代の遺跡を守り抜くべく、御家人たちを主導した。菊池容斎『前賢故実』より

今回は、大河ドラマでは描き切れない北条政子の最期を紹介。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』をひもといていきましょう。

政子・最後の半年間をたどる

北条政子が世を去ったのは嘉禄元年(1225年。元仁2年より改元)7月11日。義時が世を去った翌年のこと。当年の1月から記録をたどります。

1月14日……政子が鶴岡八幡宮で国家鎮護のため仏事(最勝八講)を始める。以後毎月の恒例に。

5月1日……疫病が流行ったため、政子が御家人たちに相談の上で般若心経の写経を命じる。

5月3日……御所内にある政子の邸宅を板塀で区切る(療養のため、騒音対策か)。

5月29日……政子が体調不良。

6月2日……政子の快癒を願い、北条泰時(演:坂口健太郎)が祈祷を始める。

6月3日……祈祷の甲斐あってか、政子の体調が少し回復。

6月5日……しかし泰時は油断せず、祈祷を続けさせる。

6月7日……政子の体調が悪化。

6月8日……政子はまだ動ける内に、生前から死後の冥福を祈る仏事(御逆修)を行なう。

6月10日……大江広元(演:栗原英雄)没。享年78歳。

「尼御台、お先に参ります」大江広元、逝く(イメージ)

6月12日……泰時が政子の快癒祈願で三万六千神の祭礼を行なう。

6月13日……義時の一周忌。

6月15日……政子、縁起を担いで新築の御所へ移転を希望。

6月16日……政子、意識不明に。すぐ意識戻る。政子の移転について、陰陽師らが議論。21日に。

6月21日……政子の移転予定日だが、陰陽師・医師らで意見が対立。夜になって政子が意識不明に。結局26日に延期。

6月26日……記述なし。ただし政子の病状が思わしくないからか、移転は再延期になった模様。

7月6日……政子を治療するため、侍医の和気定基(わけ さだもと)が往診。それまで主治医であった丹波頼経(たんば よりつね)が匙を投げたためとのこと。

7月8日……政子が危篤。演技を担いで東の御所へ移動。

そして7月11日。政子が69歳の生涯に幕を下ろしたのでした。しかし危篤状態にありながら引越しって……現代人の感覚で言えば「正気か!?」と思ってしまいますが、それだけ縁起を担ぐのは生死を左右しかねない大問題だったのでしょうね。

稀代の悪女か?それとも鎌倉の救世主か

晴。丑刻。二位家薨。御年六十九。是前大將軍後室。二代將軍母儀也。同于前漢之呂后令執行天下給。若又神功皇后令再生。令擁護我國皇基給歟云々。

※『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)7月11日条

【意訳】晴れ。午前2:00ごろ、政子が69歳で世を去った。源頼朝(演:大泉洋。前大将軍)の後家で、第2代・源頼家(演:金子大地)の母である(※あれ、源実朝は?)。前漢王朝の呂太后(りょたいごう)と同じく天下の政治を執り行われた。朝廷を支えて日本を護った彼女は、もしかして神功皇后(じんぐうこうごう)の生まれ変わりではなかろうか。

呂太后とは前漢の初代皇帝・劉邦(りゅう ほう)の妻で、夫の死後は剛腕政治家として権力を振るいました。政子が鎌倉幕府においていかに偉大な存在と見られていたかが分かります。

ただし彼女は皇族や建国の元勲を相次いで粛清するなど後世「中国三大悪女」に数えられるほど悪名高く、それに喩えられたことが政子の悪女イメージにつながったのかも知れません(あるいは政子が悪女だったから呂太后に喩えられた可能性も)。

三韓征伐に乗り出す神功皇后。月岡芳年「日本史略図会 第十五代神功皇后」

また神功皇后とは第15代・応神天皇(おうじんてんのう。やがて神格化し八幡神に)の母で、彼を妊娠中に三韓(古代朝鮮半島に存在した三つの王朝)を征伐した女傑です。

彼女も夫の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう。第14代)に先立たれており、生まれて間もない応神天皇を後見した点も、幼い三寅(演:中村龍太郎)を支えた政子に重なりますね。

霽。寅刻。二品家御事有披露。出家男女濟々焉。民部大夫行盛最前遂素懷畢。戌刻。於御堂御所之地而奉火葬。御葬事者。前陰陽助親職朝臣令沙汰。但自身不參。差進門生宗大夫有季云々。

※『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)7月12日条

政子の死は翌7月12日の午前4:00ごろに発表され、彼女を慕う多くの男女が出家しました。中でも一番早く出家したのは二階堂行盛(にかいどう ゆきもり二階堂行政の孫)とのこと。

夜8:00ごろに火葬とされ、導師は前陰陽助(さきのおんみょうのすけ。陰陽寮の元次官)安倍親職(あべ ちかもと/しんしき)の代理に、弟子の惟宗有季(これむね ありすえ)が務めたということです。

終わりに

最愛の頼朝と、大志を語らっていたあのころ(イメージ)

以上、政子の最期について紹介して来ました。源頼朝と結婚したばっかりに、娘たち(大姫・三幡)は権力に振り回され、息子たち(頼家・実朝)も非業の死を遂げる散々な人生でした。

彼女の幸せな時期と言えば恐らく挙兵前、伊豆の片田舎で大姫(演:難波ありさ)と親子3人で暮らしていたあの頃だったのではないでしょうか。

どうかあちら側では、家族みんなで幸せに暮らして欲しいと思います。

※参考文献:

五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 9執権政治』吉川弘文館、2010年11月 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

トップ画像:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより

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