北条義時に毒を盛った“のえ”が平六と共謀し…北条泰時との家督争い「伊賀氏の変」とは【鎌倉殿の13人 後伝】

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北条義時に毒を盛った“のえ”が平六と共謀し…北条泰時との家督争い「伊賀氏の変」とは【鎌倉殿の13人 後伝】

元仁元年(1224年)6月13日、北条義時(演:小栗旬)が世を去りました。その死因については諸説ありますが、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では後室・のえ(演:菊池凛子。伊賀氏)に毒を盛られた説(※藤原定家『明月記』など)を採用しています。

大河ドラマとは異なり、実際の義時はきちんと後継者を指名していませんでした。そのため、当然のごとく北条の家督≒鎌倉執権の座をめぐる争いが勃発するのでした。

義時の跡は誰が継ぐのか。その有力候補は庶子(側室の子)だけど長男、そして経験も実績も十分な北条泰時(演:坂口健太郎)と、正室である“のえ”が産んだ嫡男・北条政村(演:新原泰佑)の二人。

北条政村(左)と北条泰時(右)。果たして第3代執権はどちらに(イメージ)

劇中では全くと言っていいほど描写されていませんでしたが、義時は生前この嫡男をたいそう鍾愛していました(恐らく“のえ”にも相応に愛情をかけていたでしょう)。

経験と実績の泰時か、それとも血統と鍾愛の政村か……後世に伝わる「伊賀氏の変」。果たしてどんな結末を迎えるのでしょうか。

また裏切った平六……駆け足でたどる「伊賀氏の変」

六波羅探題として京都を守護していた泰時の元へ、義時の訃報が届いたのは6月16日。6月26日に北条時房(演:瀬戸康史)や足利義氏(あしかが よしうじ)らと鎌倉へ戻ってきました。

大河ドラマでは承久の乱(承久3・1221年5~6月)の後、泰時らが一度鎌倉へ戻ってきているような場面がありましたが、『吾妻鏡』を読む限り京都~鎌倉間を移動した記録はありません。恐らく、5月21日の首途が今生の別れとなった可能性が高いです。

【ちなみに義時の息子たち】
長男・俺たちの泰時
次男・北条朝時(演:西本たける)……母親は前室・姫の前(比奈。演:堀田真由)
三男・北条重時(しげとき)……母親は姫の前
四男・北条有時(ありとき)……母親は側室(伊佐朝政の娘)
五男・北条政村
六男・北条実義(さねよし。後に実泰と改名)……母親は後室のえ(伊賀氏)

※有時は政村より先に生まれていますが、側室の子だから元服順は一番最後で末っ子扱い。
※朝時と重時の母は滅ぼされた比企氏の出身なので後継者候補から脱落。側室の子は論外……となれば、後継者候補は自然と泰時と政村(あるいは実義)に絞られます。

執権は絶対太郎に!政子が言えばそれで決定(イメージ)

葬儀は6月18日に終わっていましたが、悲しむ暇はありません。6月28日に尼御台・政子(演:小池栄子)と再会した泰時は、軍営御後見(鎌倉殿の後見人=執権)として、武家のことを執り行うべきむねを命じられました。

先の演説でもそうですが、尼御台の仰せはいわば天の声(※『吾妻鏡』でも、義時のやってきたことはほとんど政子の意思・命令によって実行されています)。執権になれと指名されれば誰も逆らえません。

これでもう決定だね……誰もがそう思ったであろうところ、納得行かないのが“のえ”こと伊賀氏。兄弟の伊賀光宗(いが みつむね)とクーデターを共謀したと言います。

我が子・政村を執権に就けるばかりか、娘婿の一条実雅(いちじょう さねまさ。頼朝の義兄弟・一条能保の子。ただし源氏の血縁ではない)を鎌倉殿に祭り上げようとしました。

でも、伊賀一族だけだとちょっと心もとない。そこで出て来たのが三浦義村(演:山本耕史)。政村の村は義村の村、元服に際して(成人男性の証しである)烏帽子をかぶせた烏帽子親ですから、義村は“のえ”の企みに賛同しました。

また裏切るのか、平六……いや、彼にしてみれば「(政村も北条だから)北条を裏切った訳じゃない」と言ったところでしょうか。

しかしそんなふざけた言い訳を、尼御台は許さない。義村の怪しい動きを察知した政子はさっそく義村を呼びつけ、これでもかと釘を刺しました。

「いや、あの。違うんです。伊賀兄弟が変な気を起こして……私から説得しますよ」

「あなたがそう言うなら、責任を持ってお願いしますよ」

「チッ、ばれたか」政子に睨まれてしまい、手を引く平六(イメージ)

鎌倉で執権に対抗し得る勢力を持つ三浦一族が手を引いたとなれば、もう伊賀一族に勝ち目はありません。こうして武力衝突は未然に防がれ、“のえ”はじめ伊賀一族は各地へ流罪に。

政所執事であった伊賀光宗は信濃国(現:長野県)へ配流、52の所領をことごとく没収されました。ほか伊賀朝行(ともゆき)と伊賀光重(みつしげ)は鎮西(九州)へ流されます。

そして“のえ”こと伊賀氏は伊豆国北条へ流され、やがて姿を消しました。

晴。伊豆國北條飛脚到來。右京兆後室禪尼。去十二日以後病惱。自昨日巳刻及危急之由申之。

※『吾妻鏡』元仁元年(1224年)12月24日条

【意訳】晴れ。伊豆国北条から飛脚が到着。義時(右京兆)の後家尼(のえ)が12月12日に発病し、12月23日の午前10:00ごろ危篤に陥ったとのこと。

かくして「伊賀氏の変」は終結。名実ともに俺たちの泰時が鎌倉幕府の第3代執権に就任したのでした。

終わりに

以上、義時の死後に泰時が家督を継ぐまでの流れを紹介してきました。またしても平六の裏切りが勝負を分けています。

なお、泰時は“のえ”たちに担がれた政村は不問に処しており、また謀反の存在も否定。そして嘉禄元年(1225年)7月11日に政子が亡くなると、伊賀兄弟をそれぞれ赦免しました。

表向きは功徳を積んで政子の冥福を祈るためとしていますが、泰時は承久の乱において真っ先に命を棄てた伊賀の長兄・伊賀光季(演:日笠圭)の献身に報いたかったのでしょう。

政村を助け、伊賀一族を救った泰時。後に政村は鎌倉幕府の重鎮として活躍する(イメージ)

「鎌倉に忠義を貫き、絶望的な状況下で最期まで闘い抜いた光季の一族を、このまま滅ぼしてしまうなんて許せない!」

執権の座どころか、鎌倉殿さえも害そうとしていた謀叛人に対してわずか一年で赦免とは、納得いかない御家人も少なくなかったはず。

しかしこれが実際に通っていることから、そもそも謀反というのは(伊賀一族を粛清したかった)政子の言いがかりで、その政子が亡くなったから「もういいだろう」と赦免した可能性も考えられます。

ともあれここに源頼朝(演:大泉洋)の死から20年以上にわたる御家人間抗争は幕を下ろし、泰時が生きている間はしばし(比較的)平穏な時代が訪れるのでした。

かくして不安定ながら泰平の世をもたらした俺たちの泰時。しかし彼が偉大なるゆえに、その死は間もなく動乱の火種となるのですが、その話しはまたの機会に。

※参考文献:

永井晋『鎌倉幕府の転換点『吾妻鏡』を読みなおす』NHK出版、2000年12月 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

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