朝鮮水軍が日本の大船団を撃破?慶長の役「鳴梁海戦を徹底大検証」 (2/3ページ)
彼の勝因はどこにあったのか。
それは、日朝両水軍の戦術と船の構造の違いにあった。まず日本側の戦い方は、船を敵船に漕ぎ寄せて乗り移る白兵戦が主流だった。
これに対して、李舜臣は敵船との距離を保ちつつ、弓矢や火砲による攻撃を行った。
しかも、朝鮮水軍には亀甲船と呼ばれる秘密兵器があった。亀が伏せたように見えることからその名がついた船は、まず敵の侵入を防ぐために甲板に薄い鉄板をかぶせて鉄釘で留め、その鉄板一面に錐刀(先端が尖った小刀)を刺していたという。仮に敵兵が乗り込んできても、その錐刀の餌食になるわけだ。
また、前方と後方の他、左右側面にも六個の銃口を設け、漕ぎ寄せる敵船に全方向から攻撃できる仕掛けだ。
ともあれ、「唐入り」、すなわち明への侵略を最終目的にした秀吉の一回目の朝鮮出兵はこうして失敗。いったん講和が成立するものの、その内容に承服しなかった秀吉が再征を決意し、慶長の役が勃発した。
秀吉の狙いは、慶尚道に続き、全羅道を実効支配(占領)すること。このため日本軍は慶尚道から西の全羅道に侵入。一方、朝鮮水軍は、やはり全羅南道沿岸部へ進もうとしていた日本水軍に先制攻撃を仕掛けた。
だが、慶長二年(1597)七月一五日、釜山南西の巨済島付近の海域で逆に朝鮮水軍は大敗。
ただし、このときの水軍司令官(水軍統制使)は、慶長の役で李舜臣に援助を乞うた元均だった。
李舜臣はそれまでの活躍を彼に妬まれ、その讒言によって一兵卒に落とされていたのだ。
この海戦では元均らの司令官が相次いで戦死し、朝鮮水軍も船のほとんどを失った。文禄の役の敗戦を参考に、日本軍も船に大砲を載せるなどして対策を練った結果だとされる。そこで李舜臣が水軍統制使に再任され、全羅南道沿岸の最西端まで進んでいた日本水軍を追った。
そして、慶長二年九月一六日、半島南西端と珍島の間の狭い海域(そこを鳴梁という)で両軍が衝突した。それでは、『乱中日記』という李舜臣の日記を基に通説を確認しておこう。