京都大学の歴史をたどる…名門大学はどのようにできていったのか【後編】
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京都大学
思想弾圧の時代
【前編】では、京都帝国大学の設立と各学部の設置など、大学の基礎ができあがっていく過程を追いました。
京都大学の歴史をたどる…名門大学はどのようにできていったのか【前編】さて、昭和に入ると思想関係への締め付けが強化され、京都大学でも弾圧事件が起きます。
昭和3(1928)年、水野錬太郎文部大臣は秘密裏に大学総長を招集し、「左傾」教授の追放を命じました。
これを受け、京都帝国大学では当時の総長がマルクス経済学者でもあった経済学部教授・河上肇に辞職を命じます。
経済学部の教授会も河上の自発的辞職を要求する決議を採択し、河上は追いやられるように辞職することになりました。
滝川事件さらに、昭和8(1933)年には鳩山一郎文部大臣が法学部の滝川幸辰教授の著書『刑法読本』がマルクス主義的であるとして、滝川教授の辞職を京大総長に要求・強行します。
法学部の教官たちは、政府による学問研究への介入があっては真理の探究という大学の使命が果たせないとして、これに抗議して総辞職を表明。専任教官33名のうち、滝川を含む21名が京都大学を去る事態となりました(滝川事件)。
その後、日中戦争が激化するなかでの戦時体制の強化のため、国策に沿った講座が設けられました。さらに太平洋戦争の開戦後には、学生を軍隊風に編成する目的で京都帝国大学報国隊が結成されます。
学徒出陣~現代へ昭和18(1943)年10月には、それまで認められていた高等教育機関在学者の徴集猶予が停止され、文科系を中心とした2千名近くの学生が陸海軍に入隊することに。
11月20日には農学部グラウンドで出陣学徒壮行式が行われ、学生が続々と戦場に赴きました。学徒出陣壮行会では、総長の羽田亨を先頭に平安神宮に参拝、必勝を祈願したといいます。
その後、敗戦までの間にも学生の入隊は続き、京都大学からは戦争の期間中4,700名を超える学生が入隊し、264名が学生の身分のまま戦死しています。
第二次世界大戦が終結すると、公職追放によって大学を免職になる教授が出る一方で、滝川事件で大学を去っていた滝川幸辰らが大学に復帰しました。
昭和21(1946)年からは女子の入学が認められ、創立50周年に当たる昭和22(1947)年には大学名から「帝国」が削られて京都大学と改称します。そして、昭和24(1949)年には第三高等学校を統合して新制大学となり現在に至っています。
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