京都大学の歴史をたどる…名門大学はどのようにできていったのか【前編】
京都帝国大学ができるまで
日本を代表する名門大学の一つ・京都大学。その戦前の歴史をたどってみましょう。まずは前編として、「京都帝国大学」が創立する前後の流れを追います。
京都帝国大学の創立は明治30(1897)年ですが、そこに至るまでには紆余曲折がありました。
その起源は、文久元(1861)年に長崎に設立された長崎精得館(もとの長崎養生所)です。まず、この中の理化学部門が「理化学校」として明治2(1869)年に開校し、その後、洋学校と合併して明治19(1886)年に第三高等中学校へと改称します。それが明治22(1889)年には京都市吉田町に移転し、明治27(1894)年に旧制の第三高等学校となりました。
当時、近畿地方には以前から帝国大学の設置を求める声があったことから、明治28(1895)年に西園寺公望は日清戦争で得た賠償金を基に、この第三高等学校を帝国大学へ昇格させることを提案します。
最終的には第三高等学校を東一条通の南側(現在の吉田南キャンパス)に移転し、高等学校の土地・建物を大学が利用するという案が採用されました。
各学部の創設と校風の醸成創設時の計画では翌明治31(1898)年に法科大学から設置する予定でしたが、工科志望者が急増したため、創設と同年の明治30(1897)年に京都帝国大学理工科大学が設置されました。創立当初の学生数は47名、教官数は9名でした。
続いて明治32(1899)年には法科大学および医科大学が設置され、さらに附属図書館では海外から図書を購入したり寄贈の依頼などを行ったりした結果、開館時には和洋合わせて5万冊以上の蔵書数となっていたそうです。
図書館では、学生にも書庫内の検索や書籍の貸出を許可するなど、当時としては開かれた制度が導入されました。
明治39(1906)年には文科大学が設置されました。
当時の総長の意向もあって、ドイツの大学のシステムに倣い「研究・教授・学修の自由を重んじるドイツ式」を採用、この方針が現在の「自由の学風」に影響を与えたといわれています。
大正8(1919)年に分科大学制が学部制に変わり、経済学部が法学部から分離して独立の学部となりました。また、大正12(1923)年には農学部も設置されます。
この年には本部構内に「時計台」と称され京都大学のシンボル的な建物である本部本館が竣工しました。
後編では、思想関係の締め付けが厳しくなる昭和初期から、戦後までの歴史をたどります。
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