武士たるもの、刀の手入れは…『六波羅殿御家訓』が伝える北条重時(義時三男)の教え
刀は武士の魂……なんて言うまでもなく、我が身を守る根本は自分の力であり、手に持つ刀が最後の恃み。いざ敵と戦う時に刃など錆だらけでは話になりません。
だから日ごろからメンテナンスをして、もちろん剣術の腕も上げておきなさい……なんて言うと、泰平の世に慣れ切った江戸時代中期以降(18世紀~)を髣髴とさせます。
しかし人間は喉元過ぎれば熱さを忘れ、ちょっと数年から数十年ばかり戦さがないだけで、ついこういう基本を忘れてしまうもの。
今回は鎌倉時代前期、北条重時(ほうじょう しげとき。義時の三男)が記した教訓集『六波羅殿御家訓(ろくはらどのごかくん)』の一節を紹介したいと思います。
北条重時・略伝その前に、北条重時のプロフィールをざっくりたどっておきましょう。
北条重時は建久9年(1198年)6月6日、北条義時と姫の前(比企氏)の間に誕生しました。比企能員の変(建仁3・1203年)によって義時が比企に連なる母を離縁、幼くして生き別れとなります。
比企の血を引く重時は北条家中でも肩身が狭かったようで、兄弟(嫡子)の中では唯一『吾妻鏡』に元服の記録がありません。そんな苦労が彼の人格を養ったのでしょう(実兄・北条朝時という反面教師のお陰かも知れませんが……)。
やがて成長した重時は承久元年(1219年)に小侍所(こさむらいどころ。鎌倉殿の親衛隊)別当を務め、寛喜2年(1230年)に六波羅探題北方として京都へ赴任。六波羅殿と呼ばれた重時は、朝廷に対する抑えとして存在感を示しました。
『六波羅殿御家訓』はこの在任期間中(寛喜2・1230年~宝治元・1247年)に書かれたものと見られ、43条にわたる教訓集は当時の武士たちにとって手本となったことでしょう。
やがて鎌倉へ戻った重時は連署(副執権)として第5代執権・北条時頼(ときより。義時の曾孫)を補佐します。
建長8年(1256年)に出家して極楽寺で隠居。この期間に教訓集『極楽寺殿御消息(ごくらくじどのごしょうそこ)』を執筆、さらに重ねた人生経験を子孫らに伝えたかったのでしょう。
そして弘長元年(1261年)11月23日、64歳で世を去りました。息子の北条長時(ながとき)は第6代執権を務め、長女の葛西殿(かさいどの)は時頼に嫁いで第8代執権となる北条時宗(ときむね)を生むなど、鎌倉幕政に大きく影響を及ぼしています。
「腰刀の錆びたる持つべからず」さて、そんな北条重時が記した教訓がこちら。
一、 腰刀ノサヒタルモツヘカラス、シウヲヤノメス時、サヒカタナヲヌキテマイラセツレハ、思ヒヲトサルヽナリ、大方弓箭取者ノ、大刀カタナヲサハス事ナカレ、何時イカナル事ナ■アランスラント、不断ニ心用心アルヘシ、
※北条重時『六波羅殿御家訓』第31条(原文に番号はふっていませんが、便宜上)
【読み下し】腰刀の錆びたる持つべからず。主・親の召す時、錆び刀を抜きて参らせつれば、思い落とさるるなり。大方弓箭とる者の、太刀刀を錆ばす事なかれ、何時いかなる事な(ど)あらんずらんと、不断に心用心あるべし。
【意訳】腰の刀を錆びさせてはならない。主君や親に召し出された時、抜いた刀が錆びているとがっかりされてしまうであろう。そもそも武士たる者が太刀や刀(打刀、あるいは脇差など)を錆びさせるなど言語道断の不覚悟である。いつ何どき何があるか分からないのだから、たえず用心の心を忘れてはならないのだ。
ちょっと言い回しにくどさを感じるものの、武士としてはごく当たり前の心得ですね。しかしこれが江戸時代ならいざ知らず、鎌倉時代に謳われていたとは、人間の忘れっぽさを痛感させられます。
終わりに承久3年(1221年)には承久の乱があり、戦後9~26年しか経っていないのに、武士たちの記憶は既に風化しつつあったのでしょう。
小規模な抗争やトラブルも絶えなかったけど、そんなのは一部の荒くれ者に限られ、あんがい平和を謳歌していたのかも知れませんね。
しかし「忘れたころにやってくる」のが兵乱や災難というもの。現代の私たちも常在戦場の精神を片隅に置きながら、日々の備えを固めたいものです。
※参考文献:
桃裕行 校訂『北條重時の家訓』養徳社、1947年10月 『増補改訂 武家家訓・遺訓集成』ぺりかん社、2003年8月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan