戦国時代「三大奇襲作戦」のひとつ河越夜戦!北条氏康の逆転劇とその後の伝説【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

一方の氏康の軍勢は8千程度で、城兵と合わせても一万程度に過ぎませんでした。対する8万の軍勢は長期戦の構えを見せており、勝負にならないのは明らかです。

氏康は、そこで上杉軍と足利晴氏に、城の包囲を解くように書面で嘆願します。しかし、この腰の低い嘆願を疑った諸大名の連合軍は、攻撃をしかけました。

この時に氏康が取った戦法は撤退でした。まさか逃げるとは思ってもみなかった連合軍は、北条勢の弱腰ぶりを目の当たりにして完全に油断してしまいます。しかし、これが氏康の戦略でした。

奇襲によって大逆転

氏康の軍勢が動き出したのは、翌1546年4月20日の深夜です。氏康は、自分の部隊を四つに分割し、このうち三つの部隊に、連合軍の隙をつく形で奇襲させたのです。

予期しない攻撃に、混乱して潰走したのは扇谷上杉軍でした。ここで、同軍の大将だった上杉朝定は戦死したと言われています(病死とも言われています)。

この勢いに乗った北条軍は、さらに山内上杉氏を攻めて上杉憲政を撤退させます。これに加えて、河越城内の北条綱成も足利晴氏を攻撃し、敗走へと追い込んだのでした。

予想だにしない一連の攻撃によって、連合軍は慌てふためき大混乱に陥ります。この流れで二つの上杉氏も滅亡したり、急速に勢力を失ったりしていき、ここに北条氏による関東地方の支配が決定したのです。

上杉憲政の墓(Wikipediaより)

伝説の信憑性は?

と、ここまでが戦国時代の「三大奇襲作戦」と呼ばれる伝説の作戦です。

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