戦国時代は「椅子取りゲーム」から始まった!「明応の政変」後のややこしい争乱まとめ【前編】

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戦国時代は「椅子取りゲーム」から始まった!「明応の政変」後のややこしい争乱まとめ【前編】

最高権力者の三人の養子

近年、応仁の乱とは別に、戦国時代が始まるきっかけになったと言われているのが明応の政変と呼ばれるクーデター事件です。

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この事件の後に、首謀者である細川政元と、彼を巡る人々との間での争乱が続いていくことになります。

細川政元像(龍安寺蔵・Wikipediaより)

この争いの内容は、細かく見ていくととてもややこしいのですが、分かりやすくまとめて見ていきましょう。

まずは、明応の政変を起こした細川政元ですが、彼は11代将軍に足利義澄を据えて、それを裏から操る黒幕の位置につきました。事実上、幕府の最高権力者になったわけです。

しかしその権力は長くは続きませんでした。その原因のひとつが、彼は男色家だったので実子がなく、複数の養子を迎えたことです。

まずかれは、摂関家である九条氏から澄之を、また阿波細川氏から澄元を、細川の分家から高国を、それぞれ養子に迎えました。

『続英雄百人一首』細川澄之(Wikipediaより)

この中で、最初に家督を譲ることを約束していたのが澄之です。しかし政元はその後、その約束を反故にして澄元を世継ぎに立てます。これが家督争いの始まりになりました。

将軍の座を巡り三つ巴に

三人の養子の家督争いの元凶となった政元は、1507年に暗殺されます。彼は入浴中に襲われたと言われていますが、もともと修験道に没頭して天狗に扮したりするなどの奇行・悪癖があったといわれ、そうした魔術がらみの「入浴」だったようです。

これは細川殿の変と呼ばれ、澄之を擁する幕府重臣・香西元長らの仕業でした。

さらにその翌日には、澄元が屋敷にいるところを元長に攻め込まれ、近江へと敗走します。

もう一人の養子である高国だけは、澄元を支持することを表明して挙兵し、澄之を討ち滅ぼしたのでした。

細川高国像(Wikipediaより)

これだけでもややこしい話なのですが、今度はこの政変に乗じて、大内義興が周防から、前の将軍だった足利義材(よしき)を奉じて上洛します。

厳密にはこの時、義材は足利義稙(よしたね)へと改名していました。彼はかつて政元から京を追われたものの、越中・越前を経て大内氏に保護されていたのでした。そして、将軍職に復帰するべくチャンスを伺っていたのです。

足利義稙(東京国立博物館蔵・Wikipediaより)

こうして、今度は政元の養子である細川澄元と、11代将軍義澄と、前将軍の義稙の三つ巴となりました。ますます事態が混迷していくさまは、【後編】で解説します。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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