【幕末維新】天に達すか、尊皇攘夷の志。水戸天狗党の乱に散った志士・藤原天達

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【幕末維新】天に達すか、尊皇攘夷の志。水戸天狗党の乱に散った志士・藤原天達

時は江戸幕末。西欧列強の脅威が叫ばれる中、多くの者が日本を守ろうと尊皇攘夷の志に奔走しました。

大蘇芳年「名誉新談」藤原清左ェ門天達

今回はそんな一人・藤原天達(ふじわらの たかみち※)について紹介。清左ェ門(せいざゑもん)と呼ばれた彼が全力で駆け抜けたその人生は、いまも人々の胸を打ちます。

(※)名前の読みについては不詳のため、便宜上当てました。もしかしたら「てんたつ」「あまたつ」等だったかも知れません。

奥州の志士が、水戸天狗党の軍師となるまで

奥州保原の産にして幼名を卯之助と云 素より慷慨の志し雖有軍資の策を設んが為志ばらく江戸に出商家と成しが源烈公の盛義に感動し市塵を脱して名を竹林虎太郎と称す 甲子の役二百有余の騎兵を率ひ軍師となりて小金原尓出張■し粉骨砕身せしも當州湊の敗走に自ら事の遂さるを察し軍旗を武田の主将に譲り赤き心を紅葉と共に同冬十月高臺寺に屠腹せしとぞ
松林伯圓記

※大蘇芳年(月岡芳年)「名誉新談」藤原清左エ門天達

藤原天達は陸奥国保原(福島県伊達市)に生まれ、幼名は卯之助(うのすけ)と言いました。

このことから、卯年の天保14年(1843年。癸卯)か天保2年(1831年。辛卯)生まれの可能性が考えられます。

元から慷慨(こうがい。世を憂えてこれを立て直したいと願うこと)の志高く、元服して天達と改名。恐らく「志が天高く達する(よう、前途が開ける)ように」との思いを込めたのでしょう。

直ぐにも行動したかったのですが、いかんせん先立つモノがありません。そこで江戸に出て軍資金を貯めるため商売を始めました。この事から武士身分ではなく、名前も元は清左ェ門だけだったと考えられます。

いつか尊皇攘夷の志を果たすべく働き続けた清左ェ門は、源烈公(みなもとの れっこう)こと水戸藩・徳川斉昭(とくがわ なりあき)の思想に感動しました。

「決起の条件が揃うのを待つより、行動してこそ条件がついて来るのだ!」

清左ェ門は商売をやめて竹林虎太郎(たけばやし とらたろう)と改名します。古来「龍は雲を呼び、虎は風を起こす」と言うように、激動の世に風を起こさんと意気込んだようです。

天狗党を率いた首領・武田耕雲斎。大蘇芳年「名誉新聞」

果たして元治元年(1864年)、水戸の過激派・天狗党が挙兵。後世に伝わる「天狗党の乱(元治甲子の乱、甲子の役)」が幕を開けました。

この時、虎太郎は軍師として200余騎を率いたと言いますから、周囲から一軍の指揮を認められるだけの実力(人望、知略など)を備えていたのでしょう。

しかし3月から12月まで長きにわたる激戦の中、那珂湊(茨城県ひたちなか市)の合戦に敗れた虎太郎は、勝機なしと見切って軍旗を首領の武田耕雲斎(たけだ こううんさい)に返上しました。

そして紅葉鮮やかな10月某日、高台寺で切腹して果てたということです。

終わりに

尊皇攘夷の志高く、激しい生涯を駆け抜けた清左ェ門。短くも充実した日々であったろう(イメージ)

【竹林虎太郎こと藤原天達 略年表】

天保2年(1831年)誕生? 天保14年(1843年)誕生?

幼名は卯之助、元服して藤原天達と改名(通称は清左ェ門)。

活動資金を貯めるため、江戸に出て商家となる

徳川斉昭の思想に感激、竹林虎太郎と改名して天狗党に身を投じる

元治元年(1864年)天狗党の乱
3月、挙兵(軍師として兵200騎を率いる)
8月、那珂湊の合戦に敗れ軍師を辞する
10月、高台寺で切腹(享年34歳?22歳?)

以上、藤原天達の生涯を駆け足でたどってきました。まさに天まで駆け上る勢いで生き急いだ日々でした。

激動の幕末、敵味方に別れたとは言え、思いはみんな「日本を守りたい」一心だったはず。

日本人同士が殺し合わねばならなかった悲しい時代を乗り越え、一つにまとまった現代日本。志士たちの思いを、次世代へと受け継いで行きたいですね。

※参考文献:

高橋裕文『幕末水戸藩と民衆運動 尊王攘夷運動と世直し』青史出版、2005年12月 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑 1』新人物往来社、1986年5月

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