仁義なき戦いにピリオドを打て!細川・足利の将軍争奪戦を制した男・三好長慶【前編】

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仁義なき戦いにピリオドを打て!細川・足利の将軍争奪戦を制した男・三好長慶【前編】

父の代からの因縁

戦国時代は、北条早雲や斎藤道三の登場によって「始まり」とする見方が多いですが、明応の政変からの将軍職をめぐるゴタゴタに一応のケリをつけつつ、最初の「天下人」とされた三好長慶の存在も見逃せません。

三好長慶(Wikipediaより)

三好長慶は、もともとは阿波国の守護である細川氏の家宰だった国人です。が、細川政元が暗殺された際、混乱に乗じて畿内の主導権争いに参画し、そこで頭角をあらわしていきました。

1531年には、当時の当主である三好元長細川晴元をサポートして、晴元の宿敵である細川高国を自害に追い込んでいます。このことからも、三好氏が持っていた力と、その勢力の大きさが窺えるでしょう。

ところが、三好氏が補佐していた細川晴元が急に方針を転換。晴元はそれまで「堺公方」である足利義維を庇護してきたのですが、義維と対立していた室町幕府12代将軍・足利義晴との和解を進めていったのです。

足利義晴像(古画類聚・Wikipediaより)

これが原因で、晴元と三好元長は対立するようになりました。

仇敵に助け舟を出す

さて、細川晴元と対立した三好元長ですが、元長は1532年に自害に追い込まれました。一向一揆勢(本願寺)を晴元が扇動し、その攻撃を受けたことが原因でした。

こうした経緯を見ていたのが、元長の長男である三好長慶です。彼は当時11歳で、父の命により、母と一緒に堺から阿波へと逃れました。そして三好家の家督を継いで、その後は雌伏のときを過ごすことになるのですが、ほとんど間を置かず1533年に意外な出来事が起きます。

細川晴元(Wikipediaより)

一向一揆勢を扇動して三好元長を自害に追い込んだはずの細川晴元が、なんと阿波へと逃れてきたのです。彼は、自分が動かしていたはずの一向一揆をコントロールすることができず、都を追われるはめになってしまったのでした。

三好氏にとっては仇敵にあたる存在ですが、ここで晴元と一向一揆の間に入って仲介し、和解へと話を進めていきます。

この時、長慶は12歳だったので、和解のための交渉を彼が直接行ったとは考えにくいのですが、『本福寺明宗跡書』などを見ると長慶が和睦を進めたと記されています。このことからも、三好氏の権威はこの頃も衰えていなかったことが分かります。

【後編】では、長慶が細川晴元のもとで力をつけ、畿内全域を支配下に置くまでの経緯を解説します。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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