仁義なき戦いにピリオドを打て!細川・足利の将軍争奪戦を制した男・三好長慶【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

実は政長は晴元の側近で、長慶の父親である三好元長が自害に追い込まれた時も、一向一揆扇動の動きを主導したのが政長だったのです。

そして1549年、長慶は江口の戦いで晴元と政長に反旗を翻す形になり、これに勝利します。政長は討ち取られ、晴元は九死に一生を得たものの、長慶からさらに攻められることを恐れて近江へ逃れていったのです。

政権確立

さて、江口の戦いに敗れた細川晴元は、前の将軍だった足利義晴と、13代将軍・義輝と行動を共にするようになりました。

そうしている間に、長慶は1553年には芥川山城を落として居城とします。彼は将軍を擁立せずに畿内支配を実現したことから、まさにこの人こそ天下人、という評価を受けることになります。

芥川山城の石垣

こうして細川晴元政権を崩壊させた三好長慶ですが、彼の進出は止まりません。1558年には、晴元が身を寄せていた足利義輝と和睦して京都へと迎えます。

さらに細川氏の家督を細川氏綱に継がせた上に管領に就けるなどし、将軍および管領を傀儡化することで、長慶をトップとする政権が確立されたのでした。

晩年まで

このように、三好長慶は一時期は畿内のほとんど全域を支配下に置き、独裁政権と言っても差し支えない「三好政権」を確立させました。

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