江戸時代の流行作家・井原西鶴に浮世草子「ゴーストライター説!」 (2/3ページ)
ただし、はじめ「鶴永」と号していたことは俳諧集の序文から明らかだ。
ところで、彼の名が知られるようになるのは、妻を亡くした二年後の延宝五年(1677)五月。大坂生玉(大阪市天王寺区)の本覚寺で一昼夜にわたって俳句を吟じ、その数が一六〇〇句に及んだときのことだ。これを「矢数俳諧」という。
江戸時代、京都の三十三間堂で通し矢の行事が行われたことにならったものだ。通し矢とは一昼夜の間に本堂の軒下で端から端まで矢を通し、その本数を競う競技。俳諧ではどれくらいの句を詠むかを競う。
西鶴は妻が亡くなった際に悲しみの中で、夜明けから日暮れまで追悼のために一〇〇〇句吟じ、自分には短時間に多くの句を詠む才能(速吟という)があると気づき、挑戦したようだ。
後に浮世草紙のジャンルを切り開く西鶴だが、最初に矢数俳諧に挑んだのも彼だといわれる。
しかし、その記録は四か月後に破られた。そのときの句数が西鶴より二〇〇多い一八〇〇。こうなったら、今でいうギネス記録を狙うようなもの。新記録を狙う猛者が次々と現れた。
記録は三〇〇〇句まで伸びたが、西鶴は延宝八年(1680)五月、生玉社で二回目の矢数俳諧を行い、四〇〇〇句に挑戦して成功。『好色一代男』の大ヒットで浮世草子作家となったあとの貞享元年(1684)六月、今度は住吉社(大阪市住吉区)で二万三五〇〇句という前人未到の記録を達成した。
それでは、なぜ西鶴は俳諧師から浮世草子作家に転身したのか。『好色一代男』の刊行は四二歳になった天和二年(1682)。弟子の西吟がその跋文(あとがき)を寄せ、西鶴の家で反故になった転合書(いたずら書き)を見つけたという逸話を紹介しており、そこから、西鶴がいつの頃からか小説のネタになりそうな話をメモとして書き留めていたことが分かる。
当時、仮名草子と呼ばれる散文がいくつか出版され、評判になっていたから、いつかネタをまとめて出版しようと考えていたのだろう。
しかし、西吟が反故になった転合書を見つけたくらいで、出してくれる書肆 (当時の出版社)が見つからず、出版はなかなか実現しなかったようだ。