江戸時代、庶民に法令や禁止事項などを伝えた「高札」「触」どのように使い分けられていた?

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江戸時代、庶民に法令や禁止事項などを伝えた「高札」「触」どのように使い分けられていた?

武士や寺院に対する諸法度や、キリシタンへの禁令、あるいは「生類憐れみの令」などのように、江戸時代には、多くの法令が出されました。武士に対しては幕府、もしくは各藩から法令が伝えられましたが、庶民へは「高札」(こうさつ)を用いて、知らしめられました。

奈良県御所市(復元) Wikipediaより

高札とは、五角形の板に様々な決まりごとが記されたもので、宿場町など人が集まる場所の一部に屋根つきの高札場が設置され、高札はその下に立てられたのでした。ただ、全ての条項がそこに記されたわけではありません。「三箇条」「五箇条」などというように、基本的な事項のみ抜粋して書き記されていました。

高札を作成したのは、各藩の大名です。幕府から法令の基本事項を渡され、それに基づいて作成されたといいます。その後、高札は将軍の代替わりごとに作り直されましたが、基本的な法令が記されるのみでだったので、内容はそれほど変化はなかったようです。

そのような経緯もあり、八代将軍吉宗以降は、同じ高札が使い続けられることになったようです。ただ、雨などで字がにじんだり、風化して読みづらくなったりしたものは、その都度書き直しが命じられました。

一方、法令とまではいきませんが、将軍の治世ごとにそれぞれ禁止事項などが定められると、それは「触」(ふれ)という形で庶民へと伝えられていきました。今で言うと「触」は、回覧板のようなもので、読み終わると村から村へ回されるようになっていました。

この触として有名なものは、おそらく皆さんもよくご存じの「慶安の御触書」です。一説によると、1649(慶安2)年に発布され、「酒や茶を飲まないこと」「米を食べ過ぎないこと」「物見遊山が好きな女房をもらわないこと」などというように、農民の日常生活における心得が記されていたようです。

以前はこの「慶安の御触書」、幕府が発した法令(幕法)とされていましたが、当時の農村の古文書や、幕府関係者の日記類などにも記載が見当たらないことから、現在では幕府が公式に発令したものではなかったとする説が有力です。

参考

山本 英二『日本史リブレット38 慶安の触書は出されたか』(2002 山川出版社)

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