足利義昭、織田信長と出会う!やがて袂を分かつ二人の蜜月と野心【後編】

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足利義昭、織田信長と出会う!やがて袂を分かつ二人の蜜月と野心【後編】

信長と義昭、それぞれのチャンス

【前編】では、永禄の変の後、足利義昭が協力者を探して各地を転々とし、ついに織田信長にたどり着くまでの経緯を解説しました。

足利義昭、織田信長と出会う!やがて袂を分かつ二人の蜜月と野心【前編】

足利義昭像(古画類聚・Wikipediaより)

義昭から要請を受けた信長は、上洛するために必要な資金援助などを行います。彼も、次期将軍を奉じて京に入って、幕府を再興させれば自分の名声はさらに高まるだろうと考えたのです。

ちなみに、織田信長で有名なキーワードに天下布武というのがあり、これは書状の朱印に使われたことで有名になった言葉ですが、長らくこれは「自分が天下を統一する」という意味にとられてきました。

が、最近は「天下」とは幕府や京を含む畿内地域を指しており、この頃の彼はあくまでも将軍による統治を目指していたのではないかと考えられています。

とにかくこうして、信長も義昭も千載一遇のチャンスを得て、1568年10月に義昭は信長に奉じられて念願の上洛を果たしました。この時点で足利義栄は病没していたので、義昭は15代将軍に就任します。

そして信長は三好勢を京から追っ払い、義昭には二条城を建てて居城を設けるなど破格の援助をします。当然、義昭も信長には深く感謝しました。

岐阜駅前の織田信長像

不遇?波乱万丈?足利義昭の生涯

ただ、二人の蜜月は長くは続かず、義昭はその後、その信長によって追放されるという憂き目に遭います。

最後まで自立した権力を確立できなかった足利義昭は、結局室町幕府を再興させられないまま病没します。これだけ聞くととても不遇な人のようですが、実は室町幕府の将軍の中では一番の長寿でした。

また、信長の死後も、あくまでも「室町幕府15代将軍」としての権威は公的にも保たれていたと考えられています。

確かに不遇ではありますが、細かく見るとそうとも言い切れない、不思議に波乱万丈な生涯でした。

「副将軍」にならなかった信長

ところで、義昭が将軍に就任した直後、彼は信長を副将軍の職に据えようとしています。

これは当時の信長の身分からすれば破格の厚遇だったのですが、彼はこれを固辞しました。

その理由ははっきりしていませんが、彼はあくまでも義昭と対等な立場を望んでいたとか、あくまでも本国である尾張と美濃の統治を重視していたからとか言われています。

その信長がいつから、本物の「天下統一」を目指したのかは不明です。一説によると、彼は日本どころか最終的には大陸にまで進出する計画も持っていたとされています。

本能寺

しかし足利義昭を救った経緯や、それにあわせて三好勢を京から追い払うなどして、結果的に幕政による地域の安定のための筋道を作ったことを見ていくと、信長も必ずしも最初から天下統一を目指していたのではなかったのだろうと推測されます。

やはり当時の戦国武将と呼ばれる人たちも、目指したのは混乱の収束、地域の平和、そしてその手段としての天下統一だったのでしょう。最終的な目的はあくまでも権力争いで人が死なずに済む平穏な世の中だったのです。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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