駿河侵攻の裏で起きていた家中騒動!今川家の今後を決める信玄と嫡男・義信の対立 (2/3ページ)
足利将軍家から認められた義信の初陣は、天文23年(1554)の信濃国(現在の長野県)佐久郡の知久氏攻めです。義信は知久氏を攻めた後、小諸城も攻略。この時に軍勢を率いて落ち武者を300人討ち取る活躍を見せました。
そして、永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、志田義時と大川高重を討ち取る功績を残します。
この戦いで義信は手傷を負いながら戦うも、信玄は上杉謙信の攻勢により、義信を残して後退したことで親子関係にほころびが見え始めました。
謀反人となった義信
そして、そのほころびが大きな溝になったのが、永禄7年(1564)頃。義元の死によって弱体化した今川家を攻めるか否やの問題で2人は対立しました。
義信は正室に嶺松院がいることもあり、今川との同盟関係を維持する親今川路線でした。
