「東北の覇者」独眼竜・伊達政宗はいかにして豊臣秀吉に臣従した?その経緯をたどる
「10年遅かった」?伊達政宗
日本史において、東北というのは影が薄くなりがちですが、戦国時代の奥州では「独眼竜政宗」として有名な伊達政宗(だてまさむね)という覇者が君臨しています。研究者の中には「彼があと10年早く生まれていたら天下が獲れただろう」と考える人もいるほどです。
実際、伊達政宗というのは家柄も実力もずば抜けており、人間的魅力に溢れた武将でした。その彼が勢力を拡大していった経緯と、秀吉に臣従するまでの流れを追っていきましょう。
当時の奥州では、奥羽北部の南部氏や東部の葛西氏と大崎氏、中西部の最上氏や中南部の伊達氏・蘆名氏がしのぎを削っていました。
この中でも、伊達氏は鎌倉時代に土着したといわれる勢力から発展していった家系で、戦国大名としては、戦国時代初期に伊達稙宗が陸奥守護を任されたことがきっかけになってその力を強めていきました。
そして伊達氏は分国法を制定すると、近隣地域の諸将たちと婚姻関係を結んでいきながら、その勢力をさらに強大なものにしていきます。
破竹の勢いで勢力を拡大その後、1584年に18歳で伊達氏当主になったのが伊達政宗です。さらに領土を拡張しようとする彼に対して、各地の大名たちは結束して対抗しました。
そして1585年に起きた人取橋の戦いでは引き分けとなりましたが、常陸の佐竹氏が北条氏への対応に気を取られている間に、政宗はまた近隣地域へと侵攻し始めます。その結果、1586年には二本松の畠山氏を降すに至りました。
その後も1588年から1589年にかけて、大崎氏を服属させたり、小競り合いを続けていた最上氏と和睦するなどしています。また、長い間ずっとライバル関係にあった蘆名氏と摺上原の戦いで激突して勝利を収め、会津も制圧しました。
奥州南部をほぼ制圧したことで、政宗は現在の新潟・栃木の一部、福島・山形の南部、宮城のほぼ半分を手中に収めます(同盟関係にあった葛西氏と大崎氏の分の領地も含めれば、岩手の南半分にも至ります)。
秀吉への臣従ただ、ここで立ちはだかったのが秀吉の惣無事政策でした。政宗による蘆名氏攻めがこの政策に反していたということでトラブルになったのです。
しかし1590年、秀吉から北条氏討伐に参加するように求める書状が届き、政宗は情勢を踏まえた上で参陣。伝承では、彼は白装束姿で秀吉に面会したことで切腹を免れたとも言われています。
こうしてからは秀吉に臣従し、一部の地域は没収されてしまいました。しかし政宗の大名としての偉大さは決して損なわれておらず、今でも彼の領地だった地域では今でもその名が語り継がれています。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan