江戸時代、日本にやってきたゾウは天皇に謁見するため位まで与えられていた
1728(享保13)年6月19日、鎖国中の日本に、遠く広南(現在のベトナム)の地から連れてこられたのは、一匹のゾウでした。発注したのは徳川吉宗。中国人の商人を経由して、当時「広南」から直接仕入れたのでした。
当初は、牝牡一頭ずつ、計二頭を購入しましたが、牝の方は、到着早々死んでしまいました。
1729(享保14)年に出版された『象志』に描かれた「馴象(じゅんぞう)図」(国立国会図書館蔵)
当時、長崎から江戸へゾウを送ることは、並大抵のことではありませんでした。広南より長崎へは海路をとったので、船に乗せれば簡単に済みましたが、当時は鎖国体制が敷かれていたため、異国船は長崎以外の港に入っていけない決まりになっていました。
さらに、当時の日本船にはゾウを乗せることができる船舶は存在しなかったため、日本に到着したゾウは、長崎から江戸までの1400キロ以上の距離を、歩いて向かうほかありませんでした。
そこで、ゾウを連れた一行は、長崎で一冬を過ごし、3月13日、江戸へと向けて出発。その途中、京の都では、宮中に参内。中御門天皇に謁見しています。このとき、無位無官では天皇に謁見できない規則だったので、天皇に謁見するため、ゾウに対して位が与えられています。その名も「従四位広南白象」。
従四位といえば、城持ち大名クラスに相当します。「白象」とされたものの、白い象だったということは、特に記録に残されていません。
74日間の道中のすえ、1729(享保14)年5月25日、とうとう江戸に到着しました。
ゾウ一行は、到着の前日に川崎宿に寄宿、ゾウのために仮設された船橋を渡り、多摩川を超えました。そして、品川宿で休憩したのち、当座の落ち着き先であるは浜御殿(現在の浜離宮)に到着、沿道には、珍しい象の姿を一目見ようと、黒山の人だかりだったそうです。
謁見の日と定められた5月27日、浜御殿を出発した象は、見物人に見送られながら、江戸城に入り、吉宗に謁見しました。その席には、老中をはじめ、在府の諸大名が列し、吉宗は得意げの様子だったとか。
その後は、浜御殿で飼育されていたものの、2,3度見ただけで将軍にあきられてしまったようです。しかも、ゾウは大食らいで経費がかさんだ上、火事の多かった江戸の災害時などを想定した治安上の理由から、1741(寛保元)年4月、浜御殿を追い出されてしまいました。
ゾウを引き取ったのは、中野村(現在の東京都中野区)に住んでいた百姓源助と柏木村の弥兵衛でした。ゾウを引き取ることとなった源助は中野の成願寺のそばに象厩(きさや)を建てて飼育したそうです。
ところが、住み慣れた浜御殿を追い出されて、環境の変化に戸惑ったのでしょう。中野村では1742(寛保2)年に、繋綱を引きちぎって小屋を押し破るということもありました。そして、同年の12月13日、残念ながら息絶えてしまったそうです。21歳でした。
亡くなった象の遺骸は、解体されて骨と皮に分けられ、皮は幕府へ献上され、骨や牙は源助へ与えられたようです。源助の死後、ゾウの頭骨と二本の牙は、中野の真言宗豊山派寺院の宝仙寺に納められたそうですが、1945(昭和20)年5月25日のこと、太平洋戦争中の空襲によって、寺は全焼、跡地からは炭化した牙の一部が見つかったそうです。現在は非公開として扱われているようです。
参考
杉本苑子 『ああ三百七十里』(1992 東京文芸社) にしむら しのぶ 『長崎から江戸まで歩いたゾウさん』2022 「長い長いゾウの話」(上)江戸の人気者 中野に眠る」『東京新聞』2022年9月8日付朝刊 「長い長いゾウの話」(下)牙のかけら 高知にあった」『東京新聞』朝刊2022年9月9日付朝日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan