豊臣秀吉による「太閤検地」の歴史的意義は?荘園制度の解体から身分制度の確立まで【前編】 (2/3ページ)

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よって、耕作者と所有者が一致しないだけならともかく、その間に複数人の仲介者が存在していたりして、複雑怪奇な状態になっていたのです。

どれくらい複雑怪奇だったかというと、領主ですらその全貌把握が難しかったのです。よって、秀吉が行うよりも前の検地は単なる自己申告によるもので、虚偽の内容も多かったといわれています。

豊臣秀吉は農民の出なので、こうした状況をよく知っていました。そのため、国土をきちんと支配するためにも、正確な検地を行わなければならないことも分かっていたのです。

実際、彼は信長に仕えていたころから、領地を得るたびに検地をきちんと実施していました。

太閤検地のスタート

こうして行われたのが、秀吉が天下統一を果たした後の1594年の太閤検地です。

統一された検地尺にもとづいて行われたもので、実はそれまでの日本では度量衡が統一されていなかったことから、秀吉は日本史上初めて、検地の際の単位の統一を行ったのです。

太閤検地では6尺3寸を1間とし、1間四方を1歩、30歩を1畝、10畝で1段としました。また容積についても、1石は10斗、1斗は10升(1升は約1.8リットル)と定めます。さらに、太閤検地で使う枡も京枡にするものとしたのです。

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