徳川家康の禁教政策に影響を与えた江戸時代初期の疑獄事件「岡本大八事件」とは?

Japaaan

徳川家康の禁教政策に影響を与えた江戸時代初期の疑獄事件「岡本大八事件」とは?

1613(慶長18年)年、徳川家康の命で以心崇伝が作成した伴天連追放文は,将軍徳川秀忠の名で公布され,江戸時代を通じて幕府のキリスト教禁制の基本となりました。そのきっかけとなったのが前年に発生した「岡本大八事件」です。この事件は、幕府の重臣だった本多正純の家臣だった岡本大八が、朱印状偽造の罪で処刑されるという疑獄事件でした。

事の発端は、大八が、1609年ポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(一名マードレ・デ・デウス号)を長崎で撃沈した有馬晴信に、大八が、「家康が今回の恩賞として、藤津・杵島・彼杵三郡を晴信に与えようと考えているらしい。自分が本多正純に仲介して取り計らう」と虚偽を語り、仲介のための資金を無心したことから始まりました。

大八は、偽の朱印状まで周到に用意し、その結果として、晴信から6000両にもおよぶ金銭を騙し取りました。

ところが、いつまでたってもその後の連絡がなく、業を煮やした晴信が大八の主君であった本多正純に直接問い合わせたため、事件が発覚。この一件で大八は、同年3月21日に処刑されることになりました。

ところが、その吟味の過程で、「晴信が長崎奉行の長谷川藤広(ふじひろ)を暗殺しようとしている」と口走ったため、晴信自身も、所領を没収されたうえに、甲斐国に流罪となってしまい、その後、自刃を命じられました。

大八が処刑された日、家康は京都所司代の板倉勝重にキリスト教の禁止を命じました。キリシタンには改宗を強制し、改宗に応じない信徒を京都から追放するとともに、京都のキリスト教寺院を棄却させました。

家康が、このようにしてキリスト教禁止に踏み切ったのは、大八と晴信がキリシタンだったためといわれています。

また、この事件をきっかけに、家康譜代の重臣である本多氏と大久保氏が対立することになるという事態が起こりました。大八が本多正純の家臣で、大八の処断を行ったのが、大久保長安だったためです。

長安の死後、不正な蓄財が発足して一族が処分されましたが、これは、正純と父・正信の讒言があったためと考えられています。また、1614(慶長19)年正月には、長安の主君である大久保忠隣(ただちか)が改易されましたが、これも本多父子が仕掛けたものだったという説もあります。

いずれにしても、これ以降幕府や諸藩は、宣教師やキリシタンに対して激しい迫害を加えるようになっていったのです。

参考

野口朋隆「肥前日野江藩 四万石 有馬晴信 岡本大八事件 カトリック勢力や幕府に翻弄されたキリシタンの悲劇」『歴史読本』59 2014

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「徳川家康の禁教政策に影響を与えた江戸時代初期の疑獄事件「岡本大八事件」とは?」のページです。デイリーニュースオンラインは、岡本大八事件岡本大八本多正純徳川家康江戸時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る