同時多発!数時間でハイ終了?「天下分け目」関ヶ原の戦いの意外な実態とは【後編】
家康と反・家康連合の激突
【前編】では、関ケ原の戦いが始まるまでの経緯を辿りました。【後編】では、関ケ原の戦いの実態を詳しく見ていきましょう。
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豊臣秀吉の死後、五大老の一人として着実に力をつけて影響力を増していった徳川家康に対し、石田三成などの反家康陣営は連合を結成します。
ちょうどその時、家康は上杉景勝討伐のため会津に向かっていたところでした。しかし大坂の動向を知るとUターンし、石田三成を討伐対象とします。これが7月26日のことでした。
ところがこの直前、三成軍は既に家康方である伏見城を攻めており、城主である鳥居元忠も戦死。既に落城していました。三成軍はさらに美濃・尾張方面へ兵を進め、Uターンして戻ってきた家康軍とぶつかります。
そして、岐阜城の戦いでは三成方だった織田秀信が敗北。9月1日にはついに家康も江戸から出陣し、いよいよ全面対決となりました。
数時間で決着家康が関が原に到着するまでの間にも、戦局は一進一退。両軍が美濃関ヶ原に到着し、ついに激突したのは9月15日のことでした。
この時、三成軍は総勢8万で、家康軍は7~10万ほどの兵力だったといいます。どちらの軍にも歴戦の武将がおり、勢力は拮抗していました。
ここで裏切ったのが、三成方だった小早川秀秋です。彼が家康方につくと、続けて脇坂安治と小川祐忠も家康方に寝返り、結果として1万を超える軍勢が家康につくことになりました。
この、裏切りによって生じた兵力差によって、午前中に始まった「天下分け目の戦い」は、呆気なく午後1時頃には終了してしまったのです。
小早川秀秋は、合戦前に既に家康によって篭絡されていました。さらに言えば、家康方からは離反者は出ておらず、こうした点で家康の方が石田三成らよりも統率者として優れていたといえるでしょう。
全国各地でも勃発した戦闘ところで、「天下分け目」のタイミングで起きた戦いは関ケ原だけではなく、実は全国各地でも、ほぼ同時期に両陣営による戦闘が起きています。
例えば奥州では、西軍の上杉景勝と、東軍の最上義光と伊達政宗が衝突しており、長谷堂の戦いで上杉軍が敗北しています。
また北陸では前田利長と丹羽長重が戦っていますし、四国地方では加藤嘉明と毛利軍が衝突。九州地方では黒田官兵衛や加藤清正が杵築城・臼杵城を落とすなどしています。
このように見ていくと、「天下分け目の戦い」は関ケ原に限ったことではなく、同時多発的に全国各地で戦闘が繰り広げられたこのタイミングこそが、歴史的な天下の分け目だったのだといえるでしょう。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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