「二大王統論争」もある古代史の謎「倭の五王」はいったい誰なのか!? (2/3ページ)
その鉄剣には、雄略天皇とみられる大王の名とともに「辛亥年七月中記す」という製作年代が刻まれていたからだ。辛亥年は四七一年に当たり、倭王武が宋に朝貢した年代とも矛盾しない。
さらに『宋書』は興と武の父を済、『記紀』は安康と雄略の父を允恭とし、その続柄などから通説は済を允恭天皇に比定している。
そこまでは矛盾がない。問題はここからだ。『宋書』と『記紀』ともに、讃と珍、履中と反正と允恭を兄弟とし、その順に当てはめると「讃=履中天皇」「珍=反正天皇」となるが、ここで一つ目の矛盾が生じる。『宋書』に倭王珍と倭王済の続柄が記載されていないことだ。続柄が分からないから、珍(反正天皇)と済(允恭天皇)が確実に兄弟だったと言えなくなる。
つまり、この二人を兄弟とする『記紀』の内容と矛盾してしまうのだ。
その一方で、こういう説もある。『梁書』という中国側の史料に〈弥死、立子済〉(=弥が死んで子の済が立つ)と記され、弥は珍の字が変じたものとする解釈に従って「弥=珍」と見ると、ここでは珍の子が済だというのだから、允恭天応を仁徳天皇の子とする『記紀』と合致する。
よって「倭の五王」のうち、珍を済の父である仁徳天皇に比定できるわけだ。
しかし、そうなると、珍(仁徳天皇)の兄である讃に当たる天皇が『記紀』の記述に見当たらないという問題が生じる。これが二つ目の矛盾だ。
しかも、『梁書』は、後世の唐の時代に編纂された史料で、「倭の五王」についての記述は『宋書』に比べて分量が少なく、このため、「倭の五王」の研究では『宋書』を優先するのが一般的。
そうなると、やはり、『宋書』で珍と済の続柄が不明だという問題に立ち返らざるを得ない。
同書では〈讃死、弟珍立〉、〈済死、世子興遣使〉、〈興死、弟武立〉とあって、珍と済の続柄を除き、すべての倭王の関係を明らかにしている。
それなのになぜ、この二人の王の関係だけ記さなかったのか。もちろん書き漏らしの可能性も考えられる。