実は対立関係だった2人…松平信康が自害に追い込まれたのは親子間の不仲が原因だった?!【どうする家康】
『どうする家康』23話「瀬名、覚醒」を経て、徳川家康とその嫡男松平信康との対立が明白になってきました。劇中では瀬名姫が武田家と関係性を築き、それが後に内通として疑われ、信康切腹事件を迎える通説通りの結末となるのだと思われます。
しかし、実際には武田家の内通ではなく、親子間の不仲がこのような事態を招いた有力な説としてあがっています。
では、その説が有力な説としてあがった理由は何だったのでしょうか。今回は、信康の性格と信康切腹事件が起こった原因を含めて理由をご紹介します。
信康の性格信康は、武勇に秀でていたと記録にあります。それを裏付けるように、話すことは常に戦のことばかりで、乗馬と鷹狩を主にしていました。その反面、粗暴な面も目立ち、家康の悩みの種となっていました。
それが悪い方向に向かってしまった逸話として、領内の盆踊りの際に貧相な者や踊りの下手な者を面白半分で射殺し、殺したのは敵のスパイだったと言ったこと。鷹狩の際に、僧侶に出会うと獲物が取れなくなるという迷信を信じたが故に、出会った僧侶の首を絞めて殺害したことがあげられます。
まさに信康は勇猛でありながら、思慮に欠けた人物だったと言えるでしょう。
信康切腹事件が起こった原因そんな信康は天正7年(1579)ごろになると、家康の命令も聞かず、信長も軽視し、家臣にも意見が違うと厳しく当たるようになったと『当代記』には記録されています。
家康は信康の様子から謀反を起こそうとしていると勘繰り、このことを相談するために酒井忠次を織田信長の元に派遣しました。
信康の父に対する傍若無人な態度が2人の対立を決定的なものにし、信康切腹事件に至ったと考えられます。また、信康を支持した岡崎衆が2人の対立に際し、信康を担ぎ上げて謀反を起こそうと画策したとも考えられています。
そのため、家康は岡崎衆に信康の味方にならないことを誓わせる起請文を書かせたり、岡崎衆と信康の連絡を絶つために、家康自らの旗本衆で岡崎城を固めたりと謀反に対する強固な構えを見せました。
親子不仲説が有力となった理由そして、信康切腹事件が親子の不仲が原因で起こったと言われているのが『当代記』や『安土物語』にある「信康のことは家康の思い通りにせよ」と信長が言ったことにあります。
信長は家康に信康を殺すことを命令していないのに関わらず、信康を自害に追い込んでいるので、家康の意思で信康を殺したことがうかがえます。
その決断を下した理由として、父や信長を軽視する態度を崩さなかったこと。岡崎衆を率いて謀反を起こそうとしたことが考えられます。
不仲となったのは幼少期にあった!?家康は信康を大切に思うあまり、幼少期より甘やかして育ててしまい、成人してから教え諭しても言うことを聞かなくなってしまったと後悔していることから、不仲の原因は幼少期の教育が発端と考えられます。
我が子可愛さに甘やかして育てると、親を軽視しやすくなり、かといって厳しく育てると反発しやすくなるので、家康も子育てには苦労したことでしょう。
たらればになってしまいますが、信康が家康と対立せずに共に人生を歩めたら、家康の覇道に多大な貢献をしたかもしれませんね。
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