甲斐武田家は2度滅んでいた!?天目山で迎えた1度目の武田家滅亡をご紹介【どうする家康】
『どうする家康』26話「ぶらり富士遊覧」で滅亡の運命を辿った甲斐武田家。
武田勝頼の天目山の最後にて滅亡を迎えましたが、今回の武田家滅亡は、実は2度目だったことはご存知でしょうか。また、1度目の滅亡も天目山で迎えていました。
そこで今回は、因縁の地に当たる天目山で迎えた1度目の武田家滅亡についてご紹介します。
きっかけは上杉禅秀の乱
上杉禅秀に味方した持氏の異母弟・足利持仲/Wikipediaより
最初の甲斐武田家滅亡のきっかけとなったのは、応永23年(1416)に起きた上杉禅秀の乱の時です。当時の当主は武田信満(たけだ-のぶみつ)。甲斐国と安芸国の守護職を任された守護大名でした。
信満は娘が禅秀に嫁いでいた縁で上杉禅秀の乱では上杉側に味方し、当時の鎌倉公方の足利持氏(あしかが-もちうじ)や関東管領の上杉憲基(うえすぎ-のりもと)と対峙します。乱自体は順調に事が運び、上杉側が関東統治機関の鎌倉府を制圧するに至りました。
信満の死
足利義詮の助言で幕府が上杉禅秀の乱に介入した/Wikipediaより
しかし、室町幕府が介入したことで戦況が悪化。翌年の応永24年(1417)に禅秀が自害し、乱が収束し始めます。一方、信満は討伐軍の攻撃により、自国の甲斐国まで撤退しました。
しかし、武田氏庶流の逸見有直が持氏と次期甲斐守護職就任を条件にした密約を快諾。
これにより、有直に裏切られた信満は天目山に追い詰められた末に山中の木賊村(とくさむら)で自害しました。
甲斐武田家の一時断絶と再興
以後、甲斐守護職を歴任していた甲斐武田家は信満の死と信満の嫡男・信重の出家により、一時的に断絶します。その後、有直は甲斐守護職就任を望みましたが、幕府はこれを許しませんでした。
幕府としては信満の嫡男・信重を還俗させ、甲斐守護職を就任させるつもりでいました。
有直や反対勢力によって難航しますが、室町幕府6代将軍・足利義教(あしかが-よしのり)の頃には鎌倉府や逸見家が衰退していました。
それが後押しし、幕府の介入もありつつ信重が甲斐守護職を就任。同時に甲斐武田家も再興しました。
その後も内乱続きだった甲斐武田家
その後の甲斐武田家は信重が台頭しましたが、守護代の跡部家が専横している状態でした。その跡部家は信重の孫にあたる武田信昌が排斥するも、次は後継者争いで内乱状態に陥ります。
甲斐国を二分した内乱は、信昌の孫で信玄の父にあたる武田信虎が国内を統一する永正5年(1508)まで続きました。
甲斐武田家は信満死後のいざこざを経て、約100年かけて甲斐国の戦国大名として化けていくのでした。
最後に甲斐武田家は信玄の時に絶頂期を迎えますが、この礎を築いたのは信虎を含んだ先祖たちが培ったのは言うまでもありません。勝頼の代で滅亡してしまうのですが、その地が天目山だったのは何か因縁深いものがあったと考えてしまいますね。
もしかしたら勝頼は、再興できた信満を倣って天目山を意図して選んだのかもしれません。
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