徳川家康にとって「城」はどうあるべきだったのか?乱世終息のためのリスクマネジメント思想
「リーダー」徳川家康と城塞
徳川家康という人物をどう捉えるかは、時代によってさまざまな視点がありますが、現代のように公平な視点からその業績が認められるようになったのは、山岡荘八の小説『徳川家康』の影響が大きいでしょう。
それまでは、徳川家康と言えば「タヌキ親父」というイメージが強かったのですが(今もそうしたイメージで面白おかしく語られることもありますが)、その評価が一変したのは『徳川家康』以降のことです。
ちなみに『徳川家康』が出版されたのは新田次郎の『八甲田山死の彷徨』が書かれたのと同時期で、そのころ日本では「リーダー論」が盛んでした。こうした時代の空気の中で、戦国時代を終息させた徳川家康のリーダーとしての側面にスポットが当たることになったのです。
さて、そんな家康は、「乱世」を「太平の世」にするためのリーダーとしてさまざまな政策を打ち立てていきましたが、その中でも面白いのが、彼は「城はあまりに堅固ではいけない」と考えていたことです。
普通なら、敵から攻められる可能性を考えて、お城は堅固であればあるほどいいのではないか……と考えるところです。ところが、家康の考えはそれとは正反対だったのです。
危機管理もばっちり?例えばこんなエピソードがあります。関ヶ原の戦いの後、1603年(慶長8年)に家康は京都に宿泊用の城として二条城を造らせましたが、それが立派で大きすぎたため怒ったのです。
家康いわく、城というのは敵から奪い取られるものなので、あまりに頑強だと今度は奪い返すのが困難になる、という理屈でした。
城は権力の象徴であり、立派で大きければ大きいほどいいという視点から考えると、この考えは全く正反対です。
しかし、今の時代のヒューマンエラー対策やリスクマネジメントの観点から見ると、「最悪の事態が起きないようにする」よりも「最悪の事態が起きても対処しやすいようにする」ということになるので、これは理に適っているといえるでしょう。
反乱も侵略も「城なし」で防ぐ徳川幕府は、戦国の気風が残る大名たちの力を可能な限り削ぎ落すため、武家諸法度で新規の築城や無許可での城の修繕などを禁止しています。有名な「諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事」という条文です。
おそらくこのルールの根底には、前述のような家康のリスクマネジメント思想もあったのでしょう。
この影響から、長きに渡ってお城を持てなかった大名もいました。それは北海道(蝦夷地)の松前氏と五島列島の五島氏です。
どちらも、海の向こうから敵が攻めてくることを考えると城が必要なように見えるのですが、幕末まで築城が許されませんでした。これも、堅固な城を築くことで、反対に外国人が侵略の足掛かりにするのを危惧したのでしょう。
その一方で、西国の大名たちが反乱を起こした際に備えて、きちんとした城を築かせた例もあります。それが赤穂城と龍野城で、家康は姫路城に譜代大名を据えて、その西隣に赤穂・龍野城を建てることで万が一の際の防衛ラインにしようとしたふしがあるのです。
こうしたところにも、当時のリーダーたる徳川家康が、「太平の世」を作るために工夫した痕跡が見て取れます。
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