参考にしちゃダメ!?財政難に陥った薩摩藩の驚くべきブラックな藩政・経済改革【前編】

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参考にしちゃダメ!?財政難に陥った薩摩藩の驚くべきブラックな藩政・経済改革【前編】

窮乏する薩摩藩

国の借金といえば国債を思い浮かべる人が多いと思いますが、国政を預かる側が借金を抱えるのは今に始まった話ではありません。実は、江戸時代には薩摩藩が500万両(現在で一兆円ほどの価値)もの借金を抱えています。

なぜ薩摩藩はこれほどの金額の借金を必要としたのでしょうか。そして、これは返済できたのでしょうか。

薩摩藩初代藩主・島津 忠恒(または家久・Wikipediaより)

まず、この借金は、主に三つの要因によって発生しました。一つ目は、幕府から賦課された国役事業への負担です。特に木曽三川の治水工事は宝暦9年(1759年)から天明8年(1788年)まで30年近く続き、薩摩藩は累計で約10万両もの出費を強いられました。

二つ目は自然災害や火災による被害です。薩摩藩では安永8年(1779年)に桜島が噴火しました。また火災で江戸や鹿児島の藩邸が焼失するなどの損失があったため、それらの復興のためにお金が必要だったのです。

三つ目は、参勤交代制度による出費です。特に遠隔地にある薩摩藩は江戸と鹿児島を往復するだけでも多額の旅費がかかったといわれています。

江戸時代の木曽川治水工事の名残である「千本松原」

実際には、財政難に陥ったのは薩摩藩だけではありませんでした。そもそも初期の徳川幕府は、戦国時代のような乱世に陥ることを防ぐために「大名たちの力を削ぐ」ことに力を注いでいます。何かと理由をつけて各藩の財政出動を促したのは、半ば意図的だったとも言えるのです。

借金を余儀なくされる

さて、こうした背景もあって、薩摩藩は次第に財政難に陥っていきました。その一方で領内では農村部の荒廃や農民の逃散が進み、農業生産力や年貢収入は低下していきました。

薩摩藩といえば琉球貿易で利益を上げたとか、軍事的に大きな力を持ったことから幕末期の倒幕運動に寄与したとかいうイメージがあります。しかしそれは後年のイメージであり、最初はこんな状態だったのです。

また、商品作物や交易などで得られる収入も不安定であり、経済活動も閉鎖的だったため、もはや藩としては大坂の豪商や金融業者から高利子で借金をするしかありません。

その利子は年利で10%~20%に及んだとされ、これは当時の一般的な利子率の2倍から4倍でした。その結果、借金は利子だけで膨らんでいき、文政11年(1828年)には500万両に達したのです。

この借金問題を解決するため、薩摩藩は抜本的な藩政改革と、領内の経済活動の活性化を試みます。【後編】ではその詳しい内容を解説します。

参考資料
鹿児島県
尚古集成館

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