攻城隊を三度も退ける奮闘ぶり!玉砕覚悟で池田恒興を足止めした丹羽氏重の勇姿をご紹介【どうする家康】

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攻城隊を三度も退ける奮闘ぶり!玉砕覚悟で池田恒興を足止めした丹羽氏重の勇姿をご紹介【どうする家康】

小牧・長久手の戦いにおいて実行された羽柴軍の三河中入り作戦。これは、池田恒興や森長可が三河国に奇襲を仕掛け、徳川家康の虚を突く作戦として知られています。

また、この作戦で命を賭して池田隊を足止めした人物がいたのはご存知だったでしょうか。

その人物は丹羽氏重(にわ-うじしげ)。羽柴秀吉に仕えた丹羽長秀とは別の丹羽氏の若武者でした。

今回は、徳川に味方した丹羽氏重の生涯をご紹介します。

一色丹羽氏出身の氏重

児玉丹羽氏出身の丹羽長秀/Wikipediaより

氏重は永禄12年(1569)に丹羽氏勝の次男として生まれました。また、氏重のいた丹羽氏は、九州探題一色直氏のひ孫・一色氏明(いっしき-うじあき)が尾張国丹羽郡に移り住み、丹羽姓を名乗ったことを由来とする一色丹羽氏です。

反対に、織田家重臣の丹羽長秀のいた丹羽氏は、鎌倉時代に武蔵国を中心に勢力を持った武蔵七党の1つ・児玉党の末裔たちが、尾張国丹羽郡に移り住んだことを由来とする児玉丹羽氏出身とされています。

しかし、児玉丹羽氏については諸説あるため、はっきりとしていません。

織田から徳川に仕える

織田信雄/Wikipediaより

両丹羽氏は織田家に仕えていましたが、天正8年(1580)に氏重の父・氏勝が織田信長に対する謀反の疑いで追放。追放処分は氏重の兄・丹羽氏次には及ばず、織田信忠次いで織田信雄と仕えました

ところが、天正11年(1583)に信雄と対立したことにより、氏次は氏重共々徳川家康の家臣となりました

岩崎城の戦い

池田恒興/Wikipediaより

天正12年(1584)に起きた小牧・長久手の戦いの際、氏重は家康に従軍した氏次に代わって、一色丹羽氏の居城・岩崎城の守備に当たります

この時、天然痘を患いつつも、池田恒興(いけだ-つねおき)率いる中入り部隊が岩崎城を通ると、城兵239人と玉砕覚悟で攻撃を仕掛けました

当初、池田隊は岩崎城を素通りする予定でしたが、岩崎城から仕掛けてきた氏重に応戦。氏重は攻城隊を3度撃退する戦いぶりを見せます

しかし、援軍として現れた森長可(もり-ながよし)隊の銃撃に怯んだ隙に討ち取られ、16歳の若さで生涯を終えました

氏重の死を知った榊原康政は、氏次に氏重の最後を伝え、氏次は仇討ちを誓ったとされています。また、氏重の死後まもなく岩崎城は落城しました。

その後の一色丹羽氏

徳川家康/Wikipediaより

小牧・長久手の戦い後、氏次は家康の取り成しで信雄に再仕官します。そして、小田原征伐後に信雄の領地が改易となると、次は羽柴秀次に仕えました。

その後は家康に再度仕え、関ヶ原の戦いに参加した功績により、三河国伊保(現在の愛知県豊田市)に領地を与えられ、伊保藩の初代藩主となりました

最後に

玉砕覚悟で池田恒興に挑んだ丹羽氏重。岩崎城の戦いはあまりにも無謀と思ってしまいますが、徳川軍の勝利のために選んだ結果だと思います。

氏重の奮闘もあって池田恒興の進軍が遅くなり、恒興を追撃できたと言われています。

そのため、氏重の勇敢さと武勇が小牧・長久手の戦いの勝利に貢献したと言っても過言ではありません。まさに歴史を変えた人物ともいえますね。

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