今につながる被災者支援も。江戸時代の水害「寛保二年江戸洪水」被害の実態とは?

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今につながる被災者支援も。江戸時代の水害「寛保二年江戸洪水」被害の実態とは?

「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が有名なように、江戸時代は大規模な火災に苦しめられた時代でもありました。しかし、実は大小さまざまな「水害」にも悩まされました。

そこで今回の記事では、江戸時代に起きた水害とその被害、またどのような被災者支援策がとられたのかなどについて、詳しくご紹介していきたいと思います。

調べてみると、今につながる人々の助け合いも見えてきました。

大きな水害は9つ、なかでも規模が大きかった「寛保二年江戸洪水」

江戸時代において、大きな水害は約9つと言われています。また、特に被害が大きかった寛保2年(1742年)の洪水、天明6年(1786年)の洪水、弘化3年(1846年)の3つは「江戸三大洪水」と呼ばれています。

そのなかでも被害規模が大きかったのが「寛保二年江戸洪水」です。寛保2年(1742年)の旧暦7月から8月にかけてのことでした。大雨が降り、少し晴れが続いたのちに大暴風雨に見舞われたという記録があることから、大きな台風2つが江戸やその周辺地域を襲ったと考えられています。

「寛保二年江戸洪水」の被害はどのようなものだったのか

寛保二年 洪水の記録

「寛保二年江戸洪水」では、本所・浅草・下谷あたりだけでも900~1000名以上の溺死者がいたと言われています。また、町中の水位が5尺(1m50cm)や7尺などにもわたり、水没した家も多かったようです。この水害において、江戸府内では6864人の死者がいたといわれています。

被災者救済で行われたもの

多くの被害を出した「寛保二年江戸洪水」。幕府は迅速に救済策を打ち出しました。たとえば、救済船を下町に派遣し、おぼれている人や屋根・木の上で震える人を救いました。

また、避難所の設置も行われました。さらに、炊き出しも行われ、被災者に粥や飯が配布されました。

幕府の炊き出しは、延べ18万6000人分に達したと言われています。また、町方施行と呼ばれる町人のボランティア活動も実施されました。

避難所設置、炊き出し、ボランティアなどは、今の日本にもつながる人々の助け合いではないでしょうか。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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