「朝ドラ らんまん」に登場する早川逸馬のモデル!民権運動に捧げた植木枝盛の生涯 【その3】

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「朝ドラ らんまん」に登場する早川逸馬のモデル!民権運動に捧げた植木枝盛の生涯 【その1】

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政界への進出と立憲自由党

朝ドラらんまんでは、枝盛がモデルとなった早川逸馬は捕縛後にあまり登場しません。

では実際の植木枝盛は、どのような活動をしていたのでしょうか。このときの枝盛は、変わらず板垣退助ら自由党と共に行動を続けていました。

明治15(1882)年5月、高知県の酒造業者らが枝盛に造酒税の悩みを相談します。

これを受けた枝盛は、大阪で全国規模の酒屋会議を招集。減税と営業の自由を求めるように檄文を書き上げました。

それどころか酒税軽減の嘆願書を政府に提出。危うく逮捕されるところまで追い詰められます。

明治17(1884)年には、東海や北陸地方を遊説。代言人試験に遅刻して諦めるなどの事態にも遭遇しています。

しかし時代を変えるため、枝盛は奮起することをやめませんでした。

明治19(1886)年、枝盛は高知県会議員に当選。公的な立場を得ることでより政治活動を活発化させていきます。

長年にわたる枝盛の言論活動が身を結んだ瞬間でした。

明治23(1890)年5月、枝盛は板垣退助らと共に愛国公党を結成。9月には他党と合流して立憲自由党が成立しています。

国会開設に先んじての行動でしたが、枝盛はもはや国政に携わるほどの人物となっていました。

帝国議会の開設(楊洲周延画)。枝盛も衆議院議員となった。

国会議員当選と最期

国会開設の時代を迎え、枝盛は国政に関わるようになっていきます。

明治23年(1890年)、帝国議会開設に伴って1回衆議院総選挙が実施。枝盛は高知県から立候補して見事に当選を果たします。

しかし枝盛は、長年の協力関係にあった板垣退助らと意見が衝突。そのため立憲自由党を脱退し、愛国公党(土佐派)系を率いる立場となります。

同年8月、枝盛は富士山に登山。意気軒昂に活動したかに見えた枝盛でしたが、体はすでに病魔に蝕まれていました。

明治25(1892)年1月23日、胃潰瘍が悪化したことで病没。享年36。墓地は青山霊園にあります。

翌月には第2回衆議院総選挙が実施される予定でした。加えてあまりの若さだったため、毒殺説が浮上しています。

富士山。枝盛も登って健在ぶりを示した。

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