【吾妻鏡】トキューサ(北条時房)の流鏑馬デビュー!本番前の特訓エピソード【鎌倉殿の13人 外伝】

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【吾妻鏡】トキューサ(北条時房)の流鏑馬デビュー!本番前の特訓エピソード【鎌倉殿の13人 外伝】

古来、武士を弓馬と呼ぶとおり、弓射と馬術(合わせて騎射)は武士にとって必須の技術だったと言います。

かつては誰もが騎射の腕を競い合い、鍛錬の成果を神前に奉納するのが流鏑馬神事でした。

その射手に選抜されるのは弓射の腕前を認められたことを意味しており、大変な栄誉です。

しかし同時に失敗したら大恥をかいてしまうリスクも孕んでおり、喜んでばかりもいられません。そこで選抜された者たちは騎射の猛特訓に励んだものと思われます。

今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、トキューサこと北条時房(当時は北条時連)のエピソードを紹介。果たして彼はどんな特訓を積んだのでしょうか。

三人の師範たち

時は建久4年(1193年)8月9日、源頼朝公は由比ヶ浜へやってきました。

一週間後(8月16日)に迫った流鏑馬神事の出場選手たちを連れており、それぞれ自主練をさせたと言います。

「ん、五郎(時連)よ。いかがした」

時連は緊張のせいか固くなっており、上手く弓が引けません。

「はい。それがし、今回が初出場でして……」

近ごろ騎射が上達してきたから抜擢したというのに、緊張していてはいつもの実力が発揮できなくなってしまいます。

「左様か、まぁ無理もないのぅ。しかし神事なれば首尾よく務めて貰わねば困る」

「はい。分かってはいるのですが……」

「それではよい師範を呼ぼう。おい、下河辺の」

「は。如何用で」

呼ばれて来たのは下河辺行平。御家人たちの間では弓馬にすぐれ、また鷹揚な人徳で物を教えるのも得意そうです。

「コレコレ云々により、五郎へ騎射のコツを教えてやってくれ」

「御意」

さっそく行平は時連に対して、緊張せず本番に臨むコツや、よりよい身体の使い方などを指導したと言います。

指導を受けて、稽古に励む時連(イメージ)

「よう、やっとるな」

時連と行平が一対一で稽古しているところへ、やってきたのは武田有義と海野幸氏。いずれも騎射に優れた歴戦の勇士です。

「五郎よ。弓の持ち方だが、こう工夫してみてはどうだろうか」

「矢の番(つが)え方については、こう矢をとってみるとやりいいかも知れんぞ」

「方々、ありがとうございます。さっそく試してみます」

三人の師範に恵まれながら、和気あいあいと特訓に励む時連。やがて行平が口を開きました。

「五郎よ、これは当家に代々言い伝えられてきた秘術なんだが……」

みんなの教えを真綿の如く吸収する時連の成長が、よほど嬉しかったのでしょう。行平は下河辺家の伝承や故実などを惜しみなく語り聞かせたと言います。

教える方も教わる方も充実の一日となり、その様子を見ていた頼朝公も大変満足されたということです。

終わりに

地味だけど、ここ一番で活躍した北条時房。ここでは和田義盛を説得している。国立国会図書館 蔵「和田義盛への使いに向かう北条時房の図」

九日 癸卯 将軍家、由比の浦に出でしめたまふ。これ来放生会の流鏑馬の射手を召し具せらるるところなり。おのおのその射芸を試みらる。北条五郎時連、始めてこの役に従ふ。下河辺庄司行平をして、その体を訓へしめたまふ。しかるに弓の持ち様に就きて、武田兵衛尉有義・海野小太郎幸氏等、子細を申す事あり。行平、譜第の口伝・故実等を述ぶ。将軍かの儀に甘心せしめたまふ上勿論なり。

※『吾妻鏡』建久4年(1193年)8月9日条

かくして猛特訓を積んだ時連は、果たして流鏑馬神事に出場。努力の成果を全力で出し切り、良い結果が残せたことでしょう。

北条時房(時連)と言うと、兄・北条義時やその子・北条泰時らの補佐役に回るイメージが強く、比較的影の薄い印象です。しかし地道な努力で文武両道を兼ね備え、彼らの功業を下支えしていたのでした。

北条時房のエピソードは他にもたくさんあるので、また改めて紹介したいと思います。

※参考文献:

五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡6富士の巻狩り』吉川弘文館、2009年6月

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