今こそ再評価すべき「悪役」山縣有朋!超一流だった政治家としての実像
再評価が進む「悪役」山縣有朋
山縣有朋(やまがたありとも)と言えば、明治初期に西欧諸国を参考に「徴兵令」を制定して日本の軍政を確立した人物です。また、その後も日清戦争の第一軍司令官、日露戦争では参謀総長を歴任しており、近代日本の軍隊は彼が造ったと言っても過言ではありません。
政治家としても有能で、大臣・首相を経験し、最終的には元帥陸軍大将の肩書を得ています。
そんな山縣は、政界の表舞台から去った後も「黒幕」「元老」として大正11年まで政界に君臨していました。しかし、彼は口うるさく取っつきにくい嫌われ者で、大正天皇からも煙たがられていましたし、民衆からも好かれていません。
また、大正9~10年にかけて発生した「宮中某重大事件」ではその主張を退けられるなどし、評価を地に落とした印象もあります。
その理由は、彼が「民衆」の判断力を信用しておらず、長らく政党政治を嫌っており、藩閥主義やエリート主義にこだわっていた点が大きいでしょう。また「金に汚い」という噂も後を絶ちませんでした。
しかしその人物像については、近年、再評価が進んでいます。
超一流の判断力まず、山縣有朋と言えば「藩閥の権化」というイメージがあります。確かに陸軍では長い間、長州藩の出身者が幹部のポジションに就いていました。とはいえそれが全てだったわけではなく、他藩出身者も登用されています。実際には、出身地だけでは成り上がれない世界でした。
また、義和団事件(北清事変)の対応については、政治家として超一流のものでした。この事件は、清朝が外国支配からの脱却を目指して、テロリストによる反乱に西太后などの政府中枢部が乗っかって各国の外交団などを幽閉したものです。
この時の山縣の対応は実に慎重で、軍事行動に積極的になることも、中国に肩入れすることもなく、諸外国からの要請を受けて初めて本格的な部隊派遣を行っています。
その結果、連合軍の主力となったのに加えて軍紀の良さでも好評を得て、また事後の賠償金分配でも控えめな要求にとどまることで列強からの信頼も得ています。このことは、日本が文明国として西欧諸国に認知される大きなきっかけになりました。
山縣の功罪と「歴史のイフ」よく言われるのは、山縣が政党政治を嫌って民主化を遅れさせたという評価ですが、これもやや誤解に基づいたものだと言えます。何も政党政治に拙速に移行することが絶対的に正しいとは言えません。彼が行ったのは、健全な民主化を実現するための土台作りとしての軍政・官僚制度の構築でした。
それに彼も民主化について無理解だったわけではなく、「徴兵制の論理的帰結は普通選挙かも知れない」と原敬に語っています。
また、山縣も議会を無視したことはなく、板垣退助の憲政党との「闇取引」によって選挙権の拡大なども実現させています。
批判できるポイントがあるとすれば、彼の育てた陸軍が昭和になって暴走したことです。ただこれも、悪名高い軍部大臣現役武官制を作り出したのは山縣ではあるものの、その後は改正されたりしています。
むしろ深謀遠慮な性格で、冷静かつ慎重な判断力を持っていた山縣がもう少し長生きしていれば、後年の陸軍の暴走は抑制できたのではないでしょうか。
旧日本軍の創始者であることや、一見強権的で政党政治や民主制を否定するかのような考え方と手法を好んだこと、そして元老時代の悪評などから、特に戦後は悪役や悪者にされがちな山県有朋ですが、特に宰相としての功績はかなり評価すべきところがあります。
それに、彼があれほど巨大な派閥を作ることができたのも、彼の人間性によるところが大きいです。
なんだかんだ言っても、「元老の中の元老」という異名を与えられているのは、それなりの理由があってのことだと言えるでしょう。
参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年
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