元は公家出身のヤンチャ小僧!最後の元老・西園寺公望はどのような政治家だったのか?【前編】 (3/4ページ)
社長になった彼に対して、宮中から圧力がかかって辞めさせられそうになったのです。西園寺は抗議しましたが、明治天皇から直々に命令が下ると(勅命)、あっさり退職しました。
このあっさりした退職ぶりは「身勝手」「執着がない」とも言われますが、この時の体験は彼にとって一種の「挫折」として感じられたようで、その後は若い頃の情熱が鳴りを潜めるようになりました。
やんちゃな性格だった彼が、その後パリ講和会議で再開したクレマンソーをして「かつての燃えるような情熱の持ち主は、皮肉屋の老人になっていた」と言わしめるほど人格的に変貌したのは、この新聞社の退職の経緯があったと思われます。彼はは、何事も無理をしないものぐさな性格になっていました。
その後、西園寺は伊藤博文の知遇を得て、伊藤の「腹心」的な立場で政治家としてのキャリアを積み重ねていきます。
初入閣したのは第二次伊藤内閣で、この時のポストは文部大臣。後に外務大臣も兼務しており、これはフランスへの留学経験が大いに役に立ったと言えるでしょう。
さらに、第三次伊藤内閣でも文部大臣として入閣。1903年に伊藤が枢密院議長になると、1906年に西園寺が二代目の政友会総裁になりました。