解任説も浮上!原辰徳65歳「愛と憎しみ」の巨人軍人生舞台裏
ファンのみならず、記者陣も驚いた名将の唐突な辞任劇。スターとして輝きを放ち続けた男の光と影とは?
■阿部慎之助にチームを託そうと決断
10月4日、東京ドーム。今季最終戦を勝利で終えた巨人に、激震が走った。
試合終了後のセレモニーで、ファンへ感謝とリーグ4位という不甲斐ない結果を謝罪したあと、「これから個人的な話をさせていただきます」と切り出した原辰徳監督(65)。22歳で入団後、コーチ、監督と巨人での35年間を振り返ったのち、唐突に、こう口にした。
「山口(寿一)オーナーとも、しっかりと話をしました。Bクラス確定となった夜に、二つのことを約束しました。一つは辞任します。もう一つは若い新しいリーダー、阿部慎之助君にチームを託そうと決断しました」
来季、3年契約の最終年を迎える原監督が、任期途中の退任を明らかにした瞬間だった。
「同一監督で2年連続Bクラスは球団史上初の“汚点”で、当然といえば当然。ただ、驚きました。原監督は“Bクラスが確定した夜(9月29日)”にオーナーと話したと言ったが、別の話も。10月3日の中日戦に、なぜか原監督だけ当日に名古屋入り。東京で何か“重要な用事”があったようなんです」(スポーツ紙デスク)
その翌日は、まさに東京ドームでの最終戦。セレモニーで「一点の曇りもない」と言い切った原監督だが、それは本心だったのか……。
「番記者を前にした囲み取材では、珍しく男泣きしてました。今回も2015年時と同様、山口オーナーが主導した事実上の“解任説”も聞こえてきます。ただ一つ違うのは、今回は原監督自身にも、ある程度の腹づもりはあったこと。後半戦に差しかかる7月頃に、近しい人に“疲れた”と漏らしていたそうです」(前同)
35年間、輝きを放ち続けた永遠の若大将・原辰徳。今回は、その“巨人軍ヒストリー”の舞台裏を探ろう。
■“ジャイアンツ愛”を堂々と掲げ
「長嶋(茂雄)さんの後を受けて最初に監督になった02年にも“ジャイアンツ愛”なんてフレーズを堂々と掲げていたけど、我々からすると“よく、そんな恥ずかしいこと言えるな”ってことでも、彼が言うと爽やかで嫌みがない。それは入ってきた当初から、ずっと一貫していましたよね」
野球人・原辰徳をこう評するのは、現役時代のチームメイトで2学年上の角盈男氏。むろん、当時の角氏も東海大相模高の主力として4度も甲子園に出場し、アイドル的人気を誇った原の経歴を知ってはいた。
■「これはスーパースターだ」
だが、真に驚かされたのは、その天性の強運ぶりだった。既定路線のごとく、1年目から、すんなりとレギュラーに収まるその姿に、「これはスーパースターだ」と心底、感心したという。
「彼が入った1981年当時はサードに中畑(清)さんがいて、セカンドは篠塚(和典)と、本来なら“守る場所がない”状態。それが諸事情で篠塚が出遅れて、セカンドで開幕スタメン。そうこうしていたら、今度は中畑さんがケガをした。あれには“そういう星の下ってあるんだな”と、つくづく思いましたね」(前同)
開幕2戦目にして、いきなり初本塁打を放つと、4月22日、生まれ故郷・福岡は小倉球場で開催された大洋戦で、セ・リーグの新人で12年ぶりとなるサヨナラアーチ。観客がグラウンドになだれ込み、早くもスポーツ紙の一面を飾っている。
■スター街道をひた走り4番に定着
その後もスター街道をひた走り、82年からは巨人軍第48代・4番に定着する。
「彼が不運だったのは、かつての“ON”が2人で担った主軸の役割を、一人で背負い込むハメになったこと。88年、札幌・円山球場の“交通事故レベル”とまで言われた吉村(禎章)のあの大ケガがなかったら、彼自身も成績はもっと残った。巷ちまたで言われた“史上最低の4番”なんてヒドい言い方も、おそらくされていなかったはずですよ」(同)
原もまた、現役時代はケガに苦しんだ。86年9月24日の広島戦で、リリーフエース・津田恒実の渾身のストレートをフルスイングした際、左有ゆう鈎こ う骨こ つを粉砕骨折。痛みが残り、現役引退まで、この古傷に苦しめられた。
「原さんは、94年の開幕前にも左足のアキレス腱の部分断裂で離脱したが、キャリアに最も影を落としたのは、この手首の骨折。それでも、引退までに200本以上の本塁打を打ったわけだから、やはり一流です」(スポーツジャーナリスト)
実働15年の通算成績は打率2割7分9厘、1093打点。382本塁打。主要タイトルこそ、83年の打点王1回のみに終わったが、4番での出場試合数は川上哲治、長嶋、王貞治に次ぐ歴代4位に名を連ねる。
■東京ドームの引退試合で有終の美
95年10月8日、4番サードで先発出場した東京ドームでの引退試合では、自身のアーチで有終の美を飾っている。
「引退セレモニーでの“私の夢には続きがあります”はよく知られているところですが、原さんの古巣復帰は、実は藤田(元司)さんの推薦によるもの。入閣に3年かかったのは、長嶋さんとの間に遺恨があったからだとか」(前同)
その発端となったのは、引退の前年、94年9月7日の横浜戦。長嶋監督が4番の原に代えて、息子を送った“代打・一茂事件”だ。
「ひどくプライドを傷つけられた原さんは、長く根に持っていたそう。今でこそ、この一件にも笑って受け答えをするが、当時の怒りは相当なものだった。もちろん長嶋さんも、彼を“刺激”すると分かったうえで、あえて引導を渡したのかもしれません」(前出のデスク)
■長嶋茂雄から帝王学
99年、そうした因縁を乗り越え、原はコーチとして第2次長嶋政権に合流。翌年には1軍ヘッドコーチに引き上げられ、ミスターから直接、帝王学を学んだ。
「長嶋さんも原さんを快く受け入れた。のちに原さんは“あの方(長嶋監督)の発想は想像を絶するものがあり、ときには戦国武将の心構えから作戦まで幅広い。話が弾んで、ドームが閉まる深夜0時になることもしばしば。本当に勉強になった”と、心から感謝していましたから」(前同)
指揮官と信頼関係を築き上げた原は、長嶋監督が勇退した01年オフ、満を持して監督に指名される。
■渡邉恒雄オーナーと衝突
「就任1年目でのリーグ優勝に加え、西武を相手に成し遂げた4連勝での日本シリーズ制覇は、球団史上初の快挙でもありました。ただ、この頃は原さんも40代前半と血気盛ん。3位に終わった03年オフ、当時の渡邉恒雄オーナーから“コーチ陣を刷新しろ”と要求されて衝突。それが、かの有名な“読売グループ内の人事異動”発言につながるわけです」(同)
抗議の辞任をオーナーに“人事異動”のひと言で斬り捨てられた原の怒りは、相当なものだったという。
「当時の噂では、原監督は辞表を書いて辞めた唯一の監督だったそうです」(同)
■読売グループ内で確固たる地位を築き、大胆な采配
だが、この失敗により“大人の対応”を覚えたことで、2年後から黄金時代が生まれる。15年に退任するまでの10年間で3連覇を含むリーグ優勝6回、日本一2回という抜群の成績を残し、読売グループ内で確固たる地位を築き上げた。
第2次政権中の07年から4シーズンにわたってヘッドコーチを務めた伊原春樹氏は、「当時からモノの見方は、しっかりしていた」と言って、こう振り返る。
「一番印象に残っているのは、やはり08年の開幕戦。高卒2年目の坂本勇人(35)を練習でも守ったことのないセカンドで使ったときだろうね。結果的に、その試合途中で二岡(智宏)がケガをして、勇人が、その後もショートに定着することになるわけだけど、あんな決断は、ちょっと私には真似できない」(前同)
横で見る大胆な原采配には、「大したものだ」と素直に思わされたという。
「どこか長嶋さんの“勘ピュータ”を思わせるところもあって、07年の高橋由伸の一番起用なんかも、固定観念のある私には考えつかない策だったね」(同)
遠征に行けば、3連戦のうち、どこか一晩はコーチ陣を食事会に誘うなど、面倒見の良さは人一倍。
その一方で、こと試合の采配となると、プライドの高さも随所で顔を覗かせた。
「まだ私がサードコーチャーをやっていたときのある試合で、私の想定とは違う選手が代走に出てきたことがあったんだよ。たまらず、私が“今は彼じゃない”とベンチにジェスチャーを送ったら、試合後に“伊原さん、あれは、どういう意味ですか? 監督は僕ですからね”とピシャリと釘を刺されてさ。私自身も出しゃばるのと諫言するのは違うよな、と学んだよ(笑)」(同)
■コーチ陣に自分より年上を置かなくなる
ただ、伊原氏の退任以降、「自分より年上を入れるのは嫌だ」と漏らすようになったという話も聞かれた。
「名将の名をほしいままにする中で、原監督の意向により、FAやドラフトの補強に大金が投じられた。グループ内で原さんの力が強まり、誰も進言できなくなった結果が、15年の任期途中の“解任劇”を生みました」(読売グループ関係者)
その傾向は“全権監督”として再登板した19年からの「第3次政権でも続いていた」(前同)という。
「リーグ優勝9回、日本一にも3回なって、WBCでも世界一と、これほどの実績があるわけだから、コーチ陣に“顔色を窺うな”と言うほうが、どだい無理な相談でしょう」
前出の角氏はそう前置きをしつつ、指摘する。
「個人的には、伊原さんがいた頃のように野球をよく知る年長者をヘッドに置くなりして、強くなる一方の“我”をあえて薄める作業をしてもよかったのかな、とも思います。とはいえ、結果はともかく勝負に徹しながら、若手を積極的に起用するなんてのも、彼が監督だったからできたこと。これで新監督の阿部慎之助が優勝でもしようものなら、“原の遺産”と、また評価も上がるでしょう」(前同)
■勝負に徹する冷酷さや非情ぶり
現役時代、爽やかなイメージが先行した原監督だが、17年に及ぶ監督経験の中で、勝負に徹する冷酷さや非情ぶりに“怖さ”を背中にまとったのも事実だ。
「12年、現役時代の不倫関係により元暴力団関係者に1億円を支払った、とするスキャンダルが明るみになった。原さんは不倫と1億円の支払いについて素直に認めたことで、大きなバッシングにはならなかった。これも、原さんが爽やか若大将を脱却し、勝負師のイメージを築いた“産物”だった気がします」(デスク)
巨人軍監督として積み上げた通算1291勝は、かの川上哲治を超えて堂々の歴代1位。35 年という時を経て、若大将は巨人軍の“総大将”となったようだ。
【画像】原辰徳「巨人軍愛憎35年史」
