無念!鎌倉時代末期の六波羅攻めで討死した「太田守延」とは【前賢故実】

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無念!鎌倉時代末期の六波羅攻めで討死した「太田守延」とは【前賢故実】

時は鎌倉末期、後醍醐天皇をはじめ幕府を討つため多くの者たちが兵を挙げました。

ある者は功成して名を上げた一方、敗れ去って時代の奔流に淘汰されてしまう者も少なくなかったと言います。

今回は『前賢故実』より、尊皇倒幕の大義に散った太田守延(おおた もりのぶ)を紹介。果たして彼は何者で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

聖尊を奉じ、鎌倉幕府を討つために挙兵するも……

太田守延は生年不詳、通称は三郎左衛門。但馬国(兵庫県北部)の出身でした。

検非違使となって京都の治安維持に務めたのち、守護として生国の但馬へ戻ります。

そんな中、元弘2年(1332年)に後醍醐天皇が倒幕の兵を上げるも失敗。後醍醐天皇をはじめ多くの皇族が各地へ流罪となりました。

追手から逃れ、山中をさまよう後醍醐天皇。『太平記絵巻』より

後醍醐天皇の皇子である静尊法親王(じょうそん。聖尊。法親王は出家している皇子)も但馬国へ配流され、守延はその監視役を仰せつかります。

「おいたわしや、仏門に帰依した殿下にまで斯様な扱いを……」

聖尊を保護しながら年が明けて元弘3年(1333年)。ついに後醍醐天皇は再起の狼煙を上げたのでした。

「者ども、今こそ殿下を京都へお還しする時ぞ!」

「「「応!」」」

但馬から京都を目指す道中、丹波国(兵庫県北東部、京都府中部)まで来たところで後醍醐天皇の忠臣・千種忠顕が合流します。

「太田殿、加勢いたすぞ!」

「ありがたや。このまま一気に駆け上ろうぞ!」

共に京都入りを果たした両将は、聖尊を総大将(上将)として六波羅探題を攻めたのでした。

……が、この合戦で守延は討死。配下の将兵にも300余名の犠牲を出してしまいます。かくして太田守延は、倒幕の大義に生命を散らしたのでした。

終わりに

菊池容斎『前賢故実』より、太田守延。

太田守延。称三郎左衛門。但馬人也。為検非違使。元弘中。北条高時還皇子聖尊於但馬。守延時為国守護。仍命監察為及左近衛中将忠顕奉 勅復京。守延奉聖尊起義兵進会忠顕于丹波。忠顕甚悦之。乃推聖尊為上将。與倶攻六波羅。守延戦敗死之。従死者三百人。

※菊池容斎『前賢故実』巻之九

【意訳】太田守延は三郎左衛門と称した但馬の人なり。検非違使となる。

元弘年間中、北条高時が聖尊(後醍醐天皇の皇子・静尊法親王)を但馬国へ配流した際、但馬の守護であった守延はその監視を命じられた。

しかし守延は聖尊を奉じて幕府討伐の義兵を挙げ、上洛の道中で千種忠顕らと合理する。

共に京都・六波羅攻めに参加するが、抵抗激しく討死。その他死者は300名にも及んだという。

【太田守延・略年表】 生年不詳 但馬国で誕生(1歳) 時期不明 元服し、三郎左衛門守延と称する 時期不明 検非違使を務める 時期不明 但馬国の守護に任じられる 元弘2年(1332年)聖尊が但馬国へ配流、その監視を命じられる 元弘3年(1333年)聖尊を奉じて挙兵、六波羅攻めで討死

※なお、聖尊の消息は不明。

以上『前賢故実』より太田守延の生涯をたどって来ました。

歴史の大きな変わり目に立ち会いながら、新たな世の幕開けを見ることが出来なかった無念は、察するに余りあるもの。しかし、こんな考え方もあるでしょう。

たとえ収穫には立ち会えなくても、私は子供たちのために麦をまこう。たとえ自分は生命を落としても、この犠牲が次世代に幸(さきわ)う種となる。

そう信じられたからこそ、古来多くの勇士たちが私心を乗り越え戦場へ臨んだのではないでしょうか。

そんな太田守延の生き方は後世に伝えられ、現代でも私たちの胸を打ちます。

※参考文献:

菊池容斎『前賢故実 巻第九』国立国会図書館デジタルコレクション

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