「どうする家康」三成の挙兵と茶々の陰謀、そして高笑う神の君…第41回放送「逆襲の三成」振り返り

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「どうする家康」三成の挙兵と茶々の陰謀、そして高笑う神の君…第41回放送「逆襲の三成」振り返り

豊臣秀吉(ムロツヨシ)亡き後、豊臣家の実権を掌握して諸大名の心もつかみ、天下人然と振る舞う「我らが神の君」徳川家康(松本潤)。

それを快く思わない会津の上杉景勝(津田寛治)は上洛を拒み、家康は「戦なき世」をつくるため「最後の戦い」に挑みます。

しかしこれは茶々(北川景子)の陰謀。すかさず不遇の石田三成(中村七之助)をそそのかして兵を挙げさせ、その裏で遠征中の家康にそれを密告。一体彼女は何がしたいのか……家康の高笑いは陣中に響き渡ります。

三成らの大軍に包囲された伏見城。留守を勤める鳥居元忠(音尾琢真)の運命やいかに……(露骨な演出から薄々気づいていると思いますが、彼は次週で討死予定)。

NHK大河ドラマ「どうする家康」第41回放送「逆襲の三成」、今週も気になるトピックを振り返っていきましょう!

家康暗殺計画について

家康の軍門に下った前田利長(画像:Wikipedia)

時は慶長4年(1599年)9月、五奉行の一人・増田長盛(隈部洋平)の密告により家康暗殺計画が発覚しました。

首謀者は浅野長政(濱津隆之)・土方雄久(水野智則)・大野治長(玉山鉄二)そして前田利長(早川剛史)。

浅野長政は謹慎のちに隠居、土方雄久と大野治長はそれぞれ流罪。土方雄久は常陸国(茨城県)の佐竹義宣に預けられ、大野治長は下総国(千葉県北部)の結城秀康(岐洲匠)に預けられました。

そして前田利長は謀叛の疑いによって討伐の兵を差し向けられそうになり、騒動のすえ結局は母親の芳春院(おまつの方)を人質に差し出します。

これは謀叛の言いがかりから前田家の抵抗を封じようとする狙いがあったとか。こういう政治的な駆け引きに、家康の狸ぶりを見せて欲しかったですね。

ちなみに彼らは慶長5年(1600年)に罪を赦され、関ヶ原の合戦では家康側(いわゆる東軍)に与して戦いました。

だから今後も出番があるかも知れません。たとえ姿が見えなくても、きっとどこかにいるはずです!

ウィリアム・アダムスについて

家康に謁見するウィリアム・アダムス(画像:Wikipedia)

対外政策を任されたイギリス人航海士
ウィリアム・アダムス
[村雨辰剛 むらさめたつまさ]
関ヶ原の戦いの半年前に日本に漂着した、英国生まれの航海士。朝鮮出兵後の対外関係に頭を痛める家康の相談相手となり、やがて江戸に招かれ、外交顧問として重用される。日本名・三浦按針。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より

「青沼先生!」そう思ったのは、筆者だけではないでしょう。そのはずです。

(※NHKドラマ10「大奥」に登場した、混血の蘭方医。同じ人が演じています。実に感動的な最期でしたが、戦国時代に生まれ変わったのかも知れません)

日本に漂着したイングランドの水先案内人ウィリアム・アダムス(村雨辰剛)。今回の大河ツアーズでは彼の最期まで紹介されていたため、恐らく今回限りの出番と思われます。せっかくなので、ここでも生涯をたどっておきましょう。

ウィリアム・アダムスは1564年(日本では永禄7年)9月24日、イングランドのケント州ジリンガムで誕生しました。

船大工に弟子入りしたのち航海術に興味を持ち、25歳で海軍に入隊。アルマダの海戦など軍役に従事した後、退官後は航海士として活躍したと言います。

1598年(慶長3年)に極東を目指す船団に加わったものの、道中で相次ぐ災難に見舞われ、1600年(慶長5年)3月16日に日本へ漂着しました。

ウィリアムが家康と引見したのは同年3月30日。家康はウィリアムを気に入り、ヤン・ヨーステン(日本名:耶揚子)らと共に取り立てます。ウィリアムは外国使節との通訳を勤めるほか、徳川家臣らに幾何学や航海術を伝授しました。

後に洋式帆船の建造に成功したことから旗本に取り立てられ、相模国三浦郡(横須賀市)に250石の所領を授かります。そして三浦按針(みうら あんじん)という名前をさずかったのです。

三浦は所領の三浦郡、按針とは水先案内人のこと。その後も海外交易などに活躍しましたが、家康が亡くなると徳川秀忠・徳川家光らはウィリアムを冷遇。いわゆる鎖国政策に反対したためと言われます。

そして元和6年(1620年)4月24日、平戸の地で55歳の生涯に幕を下ろしたのでした。

長い長い直江状。一体何が書かれていたの?

家康を挑発した直江兼続(画像:Wikipedia)

上洛を拒否する上杉景勝。謀叛を疑う家康に対して、上杉家臣・直江兼続(TAKAHIRO)が長い長い反論状を送りつけて寄越しました。

これが後世に伝わる「直江状」。劇中では非常に長い紙をみんなでリレーしながら読んでいましたね。

みんな怒りを露わにしていた通り、その内容は弁解にかこつけた挑発に他なりませんでした。

その原文は非常に長ったらしいため、ごくかいつまんだ意訳で紹介しましょう。

「何かと謀叛の噂があるようで、徳川様が疑われるのも無理はありません。しかし京都洛中と伏見の間にさえあらぬ噂が立つものです。だから、そちらと会津との距離ではどれほど噂が増幅されるか、考えてもみて下さい。実際には大したことはないものです。少し心配性すぎやしませんか?」

「え、武具を集めて守りを固めることが謀叛ですか?いやいや、それって武士として当然でしょう?徳川様は武具を集めず守りも固めないのですか?そんな訳ありませんよね?あぁ。そう言えば近ごろ、上方の皆さんは茶道具を集めるのにご執心なんでしたっけ。そんなもん何の役に立つのやら。これもお国柄の違いってヤツですかねぇ……」

「で、ウチの殿様が謀叛って、本気で言ってるんですか?そんなの、誰が言い出したんですか?ソイツに聞いてご覧なさい。何かやましい事があるヤツに限って、他人を陥れたがるものですから。まったく付き合いきれませんよね……ねぇ?」

「いや、だから上洛しないなんて言ってませんったら。しますよすりゃいいんでしょ?でもまぁ子供じゃないんだから、来いと言われてハイと行けない大人の事情ってものがあるんです。解るでしょ?え、解らない?それじゃあ会津まで迎えに来て下さいよ。待ってますから……」

とまぁこんな調子で言うも言ったり。家康をからかい倒したのでした。

史実性には疑問があるものの、兼続を代表する名エピソードとして、多くのファンに愛されている直江状。原文の正しい訳については、また改めてじっくり紹介したいと思います。

二代目「茶屋四郎次郎」清忠について

有名な「鯛の天ぷら」エピソードは、三代目(二代目の弟)のもの(イメージ)

「あれ、茶屋四郎次郎(中村勘九郎)?お前たしか死んだ筈じゃ……」

多くの視聴者がそう思った事でしょう。そう、彼は二代目「茶屋四郎次郎」清忠。ちなみに先代は「茶屋四郎次郎」清延です。まったく紛らわしいったらありゃしません。

賑やかに登場し、世界平和のプロパガn……もとい万国泰平の理想を大演説した彼ですが、残念ながら家康よりも早い慶長8年(1603年)に亡くなります。

となると、三代目の存在が気になるところ……ハイご名答。家康の死因と噂された「タイの天ぷら」を献上したのが三代目「茶屋四郎次郎」清次(二代目の弟)です。

果たして登場するのでしょうか。多分すると思います。きっと、更に眉毛が太く描かれていることでしょう。

ちなみに家康が亡くなったのは4月17日、タイの天ぷらで腹を壊したのは正月ですから、直接の死因ではないようです。

加齢で胃腸が弱っていたのに、あまりの美味さについつい天ぷらを食い過ぎてしまう神の君のお茶目な様子を楽しみにしています。

治部の三男坊・石田佐吉について

助命され、出家した「治部の三男坊」石田佐吉(イメージ)

劇中、大谷吉継(忍成修吾)が家康の元へ参陣させると言っていた「治部の三男坊」。セリフだけの登場でしたが、治部(石田三成)の三男坊と言えば、石田佐吉でしょうか。

石田佐吉は生没年不詳。関ヶ原の合戦に敗れ、三成の本拠地であった近江佐和山城が陥落した際に捕らわれますが、津田清幽の助命嘆願によって一命を救われます。

家康に助けられた佐吉は出家して深長坊清幽と号し、のち寛永年間に薬王寺の住職となりました。

……が、これはドラマのストーリー的に何か関係があるのでしょうか。恐らくこのまま名前だけでフェイドアウトしていくものと思われます。

大谷吉継の覆面について

イメージ

病によって顔面の皮膚がただれてしまい、覆面をするようになった大谷吉継。

白い布で顔を隠した、才気あふれる名将
大谷吉継 おおたに・よしつぐ
[忍成修吾 おしなりしゅうご]
豊臣家家臣、越前敦賀を治める大名。人望厚く、秀吉、家康からも頼りにされる切れ者。友人・石田三成と家康が対立を深める中、大病から復帰した吉継の決断が、形勢を大きく変える。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より

白い布って、頭巾とか覆面などの表現とは違った味わいがありますね。

それはそうと、白い頭巾から髷が出ていましたが、吉継はこの頃出家していたような気がします。

あと、吉継は目を患っていたそうなので、その辺りも演技に取り込んで欲しかったですね。

ところでいきなり三成が吉継の茶をあおり呑んで「うつして治る病気なら、私にうつせ!」と言っていましたが、あれには一応元ネタがあります。

茶会の席で彼が飲んだ茶を、次席の者が忌避していたところを、三成だけは気にせず飲んだことから二人は親友になったとか。

※ただしこのエピソードは明治時代になってから創作されたと考えられています。

また、お茶請けに干柿が置いてあったのは末期にも「そのネタ」をやる伏線でしょうか。

有名なエピソードですが、ただ出しておけばよい(視聴者が勝手に解釈してくれる)というものではないと思います。もしかしたら、別に深い意味はないのかも知れませんが。

鳥居元忠との別れ

鳥居元忠(画像:Wikipedia)

……慶長五年四月十六日上杉景勝を御征伐のため大坂城を御首途、十七日伏見城に御滞座あり、元忠をよび松平主殿助家忠、内藤彌次右衛門家長、松平五左衛門近正等を御前にめされ、我今度景勝を征伐す、渠が滅亡時日を移すべからず。しかれども石田三成このときを覘て叛心を企つべきの疑ひあり、これによりて汝等を選みて、この城を守らしむ。もし變あらば、木下若狭守勝俊が松丸の兵をもつて援平とすべしとの鈞命をかうぶる……

※『寛政重脩諸家譜』巻五百六十 平氏(支流)鳥居

家康が伏見城を訪れ、鳥居元忠と別れを告げる場面です。

劇中では差し向かいでしたが、文献によって他の武将たちも同席していました。やっぱり家臣の一人々々に心を配ってこそ、我らが神の君というもの。そういう描写を、これまでもっと観たかったと思います。

同席していたのは松平家忠、内藤家長、松平近正たち。みんな昔から付き従ってきた歴戦の老勇士です。

「わしが会津へ向かえば、治部らは兵を挙げるだろう。そなたたちにこの伏見を預ける」

「「「御意」」」

それが捨て石として死ぬことを意味していると、誰もが理解していました。劇中では「逃げることはならぬ」なんて家康自ら言っていますが、元忠が逃げるなんてあり得ません。あのセリフは、いささか野暮に過ぎたのではないでしょうか。

ともあれ、来週は壮絶な最期を遂げる元忠たち。その勇姿を、しかと目に焼きつけておきたいものです。

※鳥居元忠のエピソードはこちら

その手は食わぬ!豊臣秀吉からの誘いを辞退し、忠義を貫いた鳥居元忠【どうする家康】

忠義をとるか?女をとるか?そりゃあもちろん……「三河武士の鑑」鳥居元忠はこうした【どうする家康 外伝】

【関ヶ原の合戦】死を覚悟した鳥居元忠(音尾琢真)が息子たちに送った遺言がコチラ【どうする家康】

第41回放送「天下分け目」

鳥居彦右衛門(鳥井彦右エ門)元忠。歌川芳虎「東照宮十六善神之肖像連座の図」より

三成の挙兵によって、いよいよ天下分け目の関ヶ原合戦が幕を開けました。

徳川秀忠(森崎ウィン)の大軍を足止めする真田昌幸(佐藤浩市)、初登場の小早川秀秋(嘉島陸)など、次週も目まぐるしい展開が予想されます。

※昌幸が天井から引っ張った白い布切れがトイレットペーパーに見えましたが、あれは何かのギミックなのでしょうか。

焼け落ちる伏見城、そして元忠の最期……少年時代からずっと家康(当時は竹千代)に忠義を尽くしてきた様子を、描写してこなかったことが惜しまれます。

後世「三河武士の鑑」と讃えられる元忠の生きざまを、心して見届けたいものです。

※参考文献:

煎本増夫 編『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年 白河亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年12月 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』宮帯出版社、2009年6月 渡邊大門『関ヶ原合戦人名辞典』東京堂出版、2021年8月 渡邊大門『関ヶ原合戦全史』草思社、2021年1月

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