西郷暗殺計画も!?降って湧いた「倒幕」への方針転換に薩摩藩の藩士たちは反対していた

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西郷暗殺計画も!?降って湧いた「倒幕」への方針転換に薩摩藩の藩士たちは反対していた

「倒幕」方針には冷ややか

幕末を舞台にしたエンターテイメント作品を見ていると、まるで薩摩藩は最初から一丸となって倒幕運動を主導したかのように感じます。

しかし、実際には薩摩が「倒幕」へと動くまでにはいくつかの前段階がありました。薩摩の倒幕運動の立役者とされている西郷隆盛ですらも、最初は倒幕には懐疑的だったのです。

薩摩川内市湯田町の西郷隆盛銅像

西郷は長州藩の過激派とは異なり、最初は朝廷と徳川が融和する公武合体政策を推進していました。そして、朝廷のもとで徳川と諸藩による連合政権を樹立することを考えていたのです。

かの薩長同盟も、もともとは、藩崩壊の危機に瀕した長州藩を救って幕府の力の弱体化をはかろうというものでした。

薩長同盟、実は「倒幕はしない」同盟だった!?真の目的と本当の敵は誰だったのか?

武力行使の可能性は、将来的な手段のひとつとして検討されていたに過ぎません。

しかし、けっきょく西郷は、諸藩連合では徳川慶喜に対抗するのは困難だと判断したとされています。彼の主導で、薩摩藩は討幕派へと方向転換しました。

とはいえ、方向転換したからと言って薩摩藩全体が急に一致団結したわけではありません。西郷や大久保利通は武力倒幕を決意したものの、薩摩藩の反応は冷ややかでした。

財政問題も足枷に

薩摩藩が倒幕に向けてすぐに団結できなかった理由は、まず薩摩藩はもともと幕府寄りの親幕派だったことが挙げられます。

幕府と薩摩の深いつながりは江戸時代初期から続いており、徳川家康の時代には松平家と婚姻関係を結んでいます。

また、徳川吉宗から徳川本家の養女を正室に迎えたという経緯もありましたし、大体、島津本家の養女にあたる篤姫が徳川家定の正室になれたのも、この薩摩藩のポジションあってこそだったのです。

「篤姫」としても知られる天璋院(Wikipediaより)

西郷が最初は公武合体政策を推進していたのも、このような事情があったからでした。

他にも、薩摩藩内が武力倒幕に対して消極的だった理由として、薩摩藩の財政赤字も挙げられるでしょう。薩摩藩は77万国と、数字だけ見れば日本屈指の石高ですが、その土壌は火山灰なので農業には不向きで、実質的な生産高は半分以下だったといいます。

そんな中、洋式産業事業や軍の洋式化、薩英戦争の賠償金支払いと復興事業などにかなりの額の資金が投入されていたのに加えて、島津久光の上洛費用もかさんでいました。

それだけではなく、さらに禁門の変の出兵費用も重なり、当時の薩摩藩の財政は火の車だったのです。

これでは、倒幕どころではないと思われるのも当然です。

島津は賛成した

しかしその後の歴史では、薩摩藩は倒幕へと傾いていきました。なぜ西郷は、藩内の反対派を黙らせることができたのでしょうか。

単純な話で、答えは「島津久光が賛成したから」です。薩摩藩のトップである久光はもともと西郷と仲が良くありませんでしたが、先述の連合政権構想には理解を示していました。

島津久光像

しかし徳川慶喜が実権を握ったことから実現は難しくなり、倒幕した方がよいという考え方になったのです。

で、さらに藩主の島津忠義も西郷に理解を示しました。こうして藩の全権を討幕派が握ることになったのです。

とはいえ反対派がいなくなったわけではなく、西郷暗殺まで計画されるなど、藩士たちをコントロールするのはそれなりの苦労がありました。

そして大政奉還が行われたのは、それからおよそ一カ月後の1867年10月です。このように見ていくと、薩摩藩が「倒幕」を志したのは、意外と幕末期の最後の最後、ギリギリのタイミングだったことが分かります。

参考資料:日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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