徳川家康の側室なんかより武功が大事!側室警護の命令を放棄してしまった武将・佐野綱正の末路 (2/3ページ)

Japaaan

側室警護よりも伏見城へ

雲光院こと阿茶局/Wikipediaより

慶長5年(1600)、家康が上杉征伐のために会津へ向かうと、綱正は大坂城西の丸の留守居と家康の側室たち(阿茶局・お梶の方(英勝院)・お万の方(養珠院)の警護を任されます。

しかし、石田三成たち率いる西軍が挙兵すると、西の丸引き渡しを条件に大坂城を退去。八幡に場所を移しました。

そして、側室たちを知人に預けた綱正は兵を率い、戦いが始まる前の7月17日に伏見城に入場します。

伏見城の戦いで綱正は大砲を放ちながら、二の丸の守備にあたりました。しかし、西軍の猛攻に防ぎきれず、奮戦するも7月29日に討ち死にしました。

徳川直臣内で唯一処分を受けた佐野綱正

徳川家康/Wikipediaより

伏見城の戦い後、綱正が取った行動は評価されるものではありませんでした。

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