四国の覇者のあっけない最後……信長、秀吉らの思惑に翻弄された戦国武将・長宗我部元親の人生【後編】 (2/3ページ)

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そのため、もはや2人の対戦は免れないという空気になっていた1582年6月、京都で「本能寺の変」が起こり、織田信長が急死。

負け戦になる可能性も高かった状況のなか、長宗我部元親は命拾いをすることになります。

そして、この死を好機と捉えた長宗我部元親は、このタイミングで四国統一に王手をかけようと乗り出したのです。

激突!四国の覇者を決める戦い

1582年8月28日、長曾我部元親が阿波(現・徳島県)への侵攻を開始し、阿波の支配者である三好氏の総帥「十河存保(そごう まさやす)」が応戦したことで開戦となりました。これが、四国の覇者を決める戦い「中富川の戦い」です。

長宗我部元親の軍勢が約2万3000人に対し、十河存保の勢力は約5000人。最初は撃退に成功していた十河軍でしたが、一領具足を巧みに扱う長曾我部元親とその軍勢の兵力差を覆すことはできませんでした。

この戦いで主要な戦力の殆どを失った十河存保は「勝瑞城(しょうずいじょう)」に籠城しましたが、2週間後には降伏。勝瑞城の明け渡しを条件に免罪され、讃岐(現・香川県)に逃げ延びています。こうして四国の覇者を決める戦いは終結したのでした。

長宗我部元親は、この時に逃した十河存保が自身の破滅を招くことになるとは思ってもいなかったことでしょう。

四国の覇者のあっけない最後

長曾我部元親は阿波の平定後、讃岐へ逃げ延びた十河存保の残党勢力を制圧しました。讃岐へ逃げていた十河存保でしたが、これ以上の逃げ場を失ってしまい、羽柴秀吉(豊臣秀吉)のもとへ泣きつき救援を懇願。そして羽柴秀吉が、14万もの兵を引き連れて四国を奪いにきたのでした。

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