したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【中編】
追い詰められていた薩摩藩
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さて大政奉還が行われた当時、西郷隆盛や大久保利通らは何をやっていたのでしょうか。
これについては、「幕府の武力討伐の準備をしていた」と雑に説明されることが多いですが、実は大政奉還の前から、徳川慶喜との暗闘は政権工作の形で始まっていました。
特に、大久保利通は必死に朝廷工作をはかっていたのですが、そのたびに慶喜の強固な政権基盤によってはじき返されており、ほとんど太刀打ちできていなかったのです。
彼ら薩摩藩の志士たちが武力倒幕の決意を固めたのは、こうした状況を打破するためでもありました。
言うまでもなく、武力面で見ても慶喜の方が数段上なのですが、大久保は、政治工作では勝ち目がないから武力討伐を選択することになったのです。いわばこちらの方が「悪あがき」でした。
そして薩長出兵盟約が結ばれたことで、薩長同盟は正式に軍事同盟となります(のちに安芸藩も加わる)。大久保は、今度は慶喜を逆賊に仕立て上げるべく朝廷工作に奔走しました。
ここで巧みに立ち回ったのが土佐藩です。特に後藤象二郎は幕府と薩長の双方に二股をかけて、有利な方につこうと企んでいました。で、有名な坂本龍馬の『船中八策』を公議政体論にまとめ直した文書を、幕臣を通して慶喜に渡しています。
それに目を通した慶喜の動きは素早く、大政奉還後に公議政体と船中八策を実現することを考えます。大政奉還が行われました。
最後の手段としての王政復古で、大久保利通はというと、朝廷に討幕勅命の発出を正式依頼したところでした。
これで勅命が降下すれば、慶喜は逆賊となり武力倒幕が可能になります。
だがなんと、その密勅が下された翌日に慶喜による大政奉還上奏が勅許されたのです。ここで、大久保が描いた武力討幕のシナリオは完全に瓦解し、密勅も停止されました。
大久保はここでも慶喜に出し抜かれたのです。しかもこの時点では長州藩はまだ逆賊扱いであり、ここで薩摩藩が孤立すれば、もう慶喜に敵はいません。
そして、これを受けて大久保が島津久光・忠義に対して最後の手段として建議したのが、王政復古のクーデターだったのです。
倒されていない慶喜さて、大政奉還後の慶喜は、征夷大将軍だけ辞めた状態でした。九月には権大納言から内大臣になったばかりで、右近衛大将の肩書もそのままです。
つまり慶喜はただ将軍職を辞しただけで、七百万石という領地や旗本八万旗は彼が掌握している状態でした。大政奉還によって失った権力など、一切なかったのです。
その後の内政・外交も相変わらず彼が行い、12月7日の兵庫港開港でも、諸外国に対して慶喜が実質的な国家元首であることが示されています。
そして、やがて明治天皇による「王政復古の大号令」が発令されました。264年にわたる徳川幕府の支配は、表面的にはここで終わったはずでしたが、慶喜はまだまだ倒されてはいません。
なんと、王政復古の大号令が発令されたその直後から、さっそく各藩を巻き込んだ騒動が始まるのです。
【後編】では、1867年12月9日の夜に行われた「小御所会議」の顛末とその後について解説します。
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参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年
倉山満『日本史上最高の英雄 大久保利通』徳間書店、2018年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
